第5話は、霊魂についての考え方、輪廻、無情と有情、無常
 人面仏心、幸不幸について、日本霊異記からの説話の紹介


仏 教 談 義 5

   ----浮世根問 ねんだくり 其の五 ----
若々しい隣りのご隠居、聞きたがり屋の隣りの寅雄さん、です。
※「佛教談義」では、佛教で一般にいわれてきた教養的なことがら を、対談の形式ですすめています。教義については、順次、観自在 『鈴の法話』で法主さまに詳しく解説していただく予定でおります。 「豚の命拾い隣の寅さん ご隠居、たいへんだ。豚がトン走して大騒ぎです。 隣のご隠居さん 陽気がよくなったわりに、下手なしゃれだな。で、 どこの話だ? 寅さん イギリスのある町の食肉処理場に連れてこられた豚が二頭、 囲いをやぶって逃げだしたんです。追手をしり目に、ざんぶと川に 飛び込んで、対岸の森へ姿を隠した。報道陣が車やヘリコプターで 行方を追ったが、なかなか つかまらない。地元の警察が「二頭は したたかで、明らかに計画的な逃亡である」と発表したそうです。 ご隠居 イギリス人は喜んだだろうな。それでなくても動物好きの お国柄だから----。 寅さん しっかり逃げろと、みんなが 豚に声援をおくり、新聞も テレビもその話でもちきりだったそうです。 ご隠居 それからどうなった? 寅さん 結局のところ捕まったのですが、そのとき豚は英雄になっ ていたそうです。お金を出すから殺さないで、という電話が殺到し、 二頭の豚は無事命拾いしたというわけです。 ご隠居 心の温まるよい話だが、この勇気ある豚の逃走を無邪気に 喜んでいる一方で、毎日何百万もの家畜が殺されている事実には、 目をつむっている。考えてみれば、勝手なものだな。 寅さん ご隠居のように、そんなことを言っていたら際限(きり)が ありませんよ。私たちも食わなきゃ生きてゆけない。 ご隠居 たしかにそうだ。アリストテレスも言っている。「動物は 人間が利用するために存在する」とな。しかしこれも非常に偏った 考え方で、人間の思い上がりのような気がしないでもないな。 断常の二見 寅さん ところでご隠居。前からぜひ伺おうと思っていたんですが、 私たち人間や動物が死んだあと、その霊魂はいったいどうなるんで しょうか? ご隠居 よい質問だ。我々人間の霊魂は、身体があるからこそ存在 するのであって、霊魂は、その身体に付随する一部分であるという 考え方と、いや、そうではない、身体は精神を支える土台でしかな く、精神こそが身体のすべてを支配する、という二つの考え方があ るな。  かりに、ここに、すばらしい切れ味の刀があるとする。しかし、 いくらよく切れる刀といっても、その本体の刀がなくなれば、切れ 味だけ残るということはありえない。 寅さん そりゃそうだ。刃物がなければ大根は切れません。 ご隠居 物の形がなくなったあとも、そのものの特性が依然として 残る道理がないな。  かりにまた、霊魂が不滅とすると、犬が死んで人に生まれ変わっ たり、人が変じて餓鬼などになることはないはずだ。  人はいつまでも人である理屈だが、ただ人間のなかには、生きて いるあいだの所業(しょぎょう)、つまりおこないの善し悪しに優劣 があるために、人生にいろいろの格差が生じる。  佛教ではその所業や業因(ごういん)----善悪の報いを受けるもと になるおこないによって三界六道(さんがいろくどう)に転生(てんし ょう)すると説いている。これを「断常の二見」といって、たいそう 議論のあるところだな。 寅さん どうもご隠居は、話をむつかしくする傾向がありますね。 切れ味のよい刀は、どうしました? ご隠居 あの話は終わったよ。刀が身体で、切れ味が霊魂、という もののたとえだ。いいか寅さん、いわゆる断見とは、身体が滅亡す れば、霊魂もそれにしたがって滅亡する、という考え方だ。  一方、常見とは、身体が滅亡しても、霊魂のみは滅亡しないとい う考え方だ。この考え方だと、霊魂はどこまでいっても変わること なくあって、人間の霊魂はいつも人間であり、その他の動物は、い つもその動物として生まれることになる。  つぎは、霊魂が輪廻(りんね)する話だ。 寅さん 輪廻とは、生きかわり死にかわりすることですね? ご隠居 そうだ。車輪がぐるぐる回ってきりがないように、霊魂が 転々と他の生を受けて、迷いの世界をめぐる、とでもいえばよいか な。  その霊魂が常住不変であることの例証として、植物の種子などで 議論をすすめるのは妥当性を欠くな。バラの花はどこまでいっても バラであり、ナスビの種子を植えれば、ナスビができるに決まって いるからだ。  しかし、ここで考えなければいけないことは、植物はあくまでも 無情(むじょう)で心を持たないし、無知覚であるということだ。 寅さん そんなことはありません。近頃は、花の蕾に向かって、 お前はきれい、お前は美しい、とお世辞(せじ)をいうと、花のほう もついその気になって、一段と見事な花を咲かせるといいますよ…。 ご隠居 寅さんのように、人の話の腰を折るのはよくないな。  さて一方、心を持つ有情(うじょう)はそうでない。有情は文字通 り心情というものを所有している。有情の霊魂が輪廻するゆえんは、 彼らがみずからの行為において、善行と悪行をみずからの心の欲望 のおもむくままにしてしまうからだ。  だから、善業や悪業によって輪廻転生(りんねてんしょう)するの は、有情にかぎられるものであって、非情(ひじょう)の草木などに はそれがない。  有情(うじょう)の世界には、善いおこないを賞し、悪いことをす ればこれを罰する、という規則(きまり)が厳然としてあるのだな。 では、その賞善罰悪をだれが判定するかというと、それは、神でも なければ佛でもない。自業自得(じごうじとく)という因果(いんが) の法則が、そのことをきちんと判定してくれるのだよ。 寅さん へえ、自業自得というのは怖いもんですね。 幸不幸は気持ち次第 ご隠居 おたがい、自業自得だけはご遠慮ねがいたいものだな。  人生に対する姿勢----、努力とか向上心とか、毎日の積み重ねに よって、充ち足りた生活をおくる人もいれば、いつも不平不満だら けで日をすごす不幸な人もいる。  また、この世に人間として生きながら、そのおこないは けもの にも等しい残酷なことを平気でやる人間もいる。 寅さん います、います。学校の兎小屋を襲って子どもたちを悲し ませたり、ずっと以前、平和公園で遊んでいる鳩の群れに中に、わ ざと車を走らせて、轢(ひ)き殺すというとんでもない奴もいました。 ご隠居 そういうやつは、姿かたちこそ人間の恰好をしているが、 心は、けものそのものの心の持ち主であって、人面修羅(しゅら)心、 人面獣心、人面餓心、人面地獄心だ。 寅さん そのなかに人面魚(じんめんぎょ)ははいりませんか。ひと ころ流行ましたがね。 ご隠居 人の話を茶化しなさんな。また一方では、心の美しさがそ のまま顔に表れる人面天上心、人面菩薩心、人面佛心といった心の 非常に清浄(しょうじょう)な人間もいる。つまり、人間の顔という ものは、その精神の持ち方よって、どのようにも形をかえられると いうことだな。 寅さん ふーん。するとご隠居や私などは、とりあえず人面天上心 ぐらいですか? ご隠居 寅さんの場合は、天上心というより、少しばかり間のびの した顔というほうがよいかもしれないな。  それともう一つ、(ごう)----人のおこないが前世の業か、今生 (こんじょう)の業かは、にわかに判断することはできないが、人の 生き方にそれぞれ差が生ずることなどは、まず今生の業であること はまちがいないだろうな。 寅さん それは言えてる。私があまり裕福でないのは、努力が少し 足りないからだし--、この顔は先祖代々から授(さず)かったもので、 私の責任ではありません。 ご隠居 さて、本論の霊魂の不滅の話だが、もともと佛教はそうい う議論はしないものだ。その問題にふれると、どうしても「断常の 二見」にこだわって、話が横道に逸(そ)れる。  では佛祖(ぶっそ)のお考えはどうかというと、佛祖は断見、常見 という見方をしりぞけられる。 寅さん 断常二見とは何ですか? ご隠居 断見とは、人は一度死ねば、断滅して再び生まれることは ないとして、死後の運命を否定する誤った見解、常見は、世界も我 も常住不滅であると主張する誤(あやま)った見解のことだ。  身体が滅んだのに霊魂は存在する、という考え方にたつと、肉体 に断見を起こして、心に常見を起こすため、それはとりもなおさず 断常の二見に陥(おちい)るからだ。  断っておくが、佛教の教学では、霊魂という文字は使用しない。 強いて適当な文字を当てるとすれば心識または霊識であり、佛祖の 正しいご見解はこうだ。そもそも心身は一体だから肉体が滅して心 は滅せずともいわなければ、心は不滅にして肉体は滅するともいわ ない。滅するときは肉体も心も共に滅するし、不滅のときは心身と もに不滅である、とする。  ずっと存在することを前提に考えれば、あらゆるものは常住であ るし、反対に、一切のものが生滅してさだまりがないと考えれば、 すべてが無常であると説く。  だから心身を常住、無常に分ける必要がどこにあるのか、という のだ。もその時限りのものなら、もまた、ひとときのものでし かない。したがって、滅も、つまるところ滅ではないし、生も結局 は生ではない。生から滅に移り、滅から生に移り、このように生と 滅が相続して断絶することがないから、誤った断常二見を起こして はならないと教えている。分かったかな? 寅さん なんだか分かったようなそれでいて、よくわからない。 ご隠居 要するに、私たちがいま存在するのは、突然この世に現れ たわけではなく、両親があり、その両親にもまた両親があったから 私たちが生まれたわけだ。過去にそういう生滅をくり返してきたか ら常でなく、親から親へという相続のつながりがあるから断でもな い。つまり個体は滅んでも、DNAという遺伝子の本体が順送りに バトンタッチをきっちり実行しているから、私たちの身体と心は断 でもなく、常でもないというわけだ。  ところが、身体は断滅しても心は常住であると思ったりするから 始末がわるいのだな。
※「日本霊異記」は平安初期の仏教説話集です。奈良時代から弘仁 年間〔810−824〕に至る、わが国の異聞や、悪行をこらしめ る、殊に因果応報(いんがおうほう)などに関する説話を集めた三巻 の書物です。詳しくは「日本国現報善悪霊異記」。   女牛(めうし)となった母を救う話                  「日本霊異記」より  高橋連(むらじ)東人は、伊賀の国山田郡のある村の長者であった。 村いちばんの物持ちであるうえ、人柄もよいので、村人たちの尊敬 をあつめていた。  東人はあるとき、亡母のために法華経を一字一字心をこめて写し あげ、佛前に祈願(きがん)した。 「有縁(うえん)の貴い僧を招き、亡き母を供養して、さとりの彼岸 に済度(さいど)したいと思いますので、どうぞよろしくお願いいた します」  こうして法事の準備をすっかり済ませ、明日いよいよ供養をする ことになって、家の者を呼んだ。 「よいか、お前がこれから里に出かけて、最初に逢った僧を、明日 の導師(どうし)にしようと思うから、加持祈祷(かじきとう)の法を 心得ている様子の人なら、特に見逃すことなくお連れするのだぞ」 と言いふくめた。用を言いつかった者が、さっそく表にとびだし、 適当な場所をきょろきょろしながら歩いていると、酒に酔って道端 で寝ている一人の男を見つけた。  男は鉢を入れる袋を肘(ひじ)にかけ、袈裟(けさ)のようなものを 胸に、いかにも僧の風体(ふうてい)なのだ。  実はこの男、僧などではない。陀羅尼(だらに)を唱(とな)えて人 に物乞(ものご)いする酒呑みの浮浪者にすぎなかった。  それを里人がふざけて、面白半分に、前後不覚に酔つぶれている 男の髪を剃(そ)りおとし、縄をかけて袈裟にみたてて笑いものにし たのであった。  そうとは知らないから、使いの者は男を親切に介抱し、礼を尽く して家へ案内して帰った。東人は男の身なりに少し眉をひそめたが、 急いで法衣(ほうえ)を縫わせ、身にまとわせた。  わけが分からぬまま連れてこられた男が聞く。「これは一体どう いうことでしょうか」 「あなたに法華経を説いていただくためです」 「冗談じゃない。私はただ、般若陀羅尼(はんにゃだらに)を唱えて、 その日の食を他人様(ひとさま)に乞(こ)うあわれな人間です」  男は途方にくれ、この家から逃げだすことを思案する。東人も男 が逃げださないよう、家人に見張りをさせることにした。  その晩、男は夢を見た。赤い牝牛が現れていう。「私はこの家の 主人の母だが、前世(ぜんせ)において、少しの過(あやま)ちをした ため、こんな姿になって罪の償(つぐな)いをしている。貴方が私の 法事の導師ということなので夢枕に立った。嘘だと思ったら明日の 法事に私の座(ざ)を設けてみよ」  当日の朝になり、男は仕方なく講座(こうざ)についていう。 「ほんとうに私は佛法(ぶっぽう)について何も知らない。この家の 主人がたっての願いというから、この座にのぼっただけだ。ただ、 昨夜、夢にお告げがあった」と、つぶさに昨夜の夢を話した。  これを聞いた東人は、ただちに座をしつらえ、牝牛を喚(よ)んだ。  すると、一頭の牝牛(めうし)が、いずくからともなく現れて、座 にうずくまった。東人は大粒の涙を流しながらいう。 「たしかに私の母だ。まさか母がこんな姿になっているとは知らな かった。さぞ辛かったことでしょう。お許しください」  そして牝牛は、法事が終わると安らかに死んだのである。  法会(ほうえ)に集まった人々はみんなもらい泣きした。  これほど不思議な話も珍しい。この不思議は、東人が母の恩を おもい、深く佛教を信じていたことと、その浮浪者のような男が、 日ごろから般若心経の陀羅尼(だらに)を唱えていた功徳(くどく) のあらわれといえるのではないだろうか。
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