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十住心論四季の閑話

    秘密曼荼羅十住心論 其の三

                   観自在編集部

 六道とは、自然界に生きるすべてのものが、自分の考
えるまま、欲望のおもむくままに行動し、生死(しょう
じ)を際限なく繰り返す6つの迷いの世界、つまり地獄、
餓鬼、畜生、阿修羅、人間界、天上界のことである。
 凡夫は、この真理における因果(いんが=自然界の法
則)を知らず、平気で悪いことをし、苦しみの原因とな
ることに手を染め、そればかりか、この迷いの世界を恋
い慕い、その三界(さんがい)にしがみついて、そこか
ら脱けだそうとはしない。
 なぜなのであろうか。
 ここでいう凡夫とは、正しくは「異生(いしょう)」
というべきであろう。
 すなわち、根源からなる無知によって、己が成した行
為の一つ一つにわたって厳しい報いを受け、がんじがら
めに自由を束縛されるのである。
 そのあげく、種々の迷いの世界のなかに堕(お)ちて、
その生まれるところがそれぞれに異なる。
 だから「異生」というのである。
 こういう人たちが考えている自分なり自我とは、言葉
としては確かにあっても、実体は無いものと心得るべき
である。たんに自我という上面の名にとらわれているだ
けにすぎない。
 ほんとうの自我とは、あらゆる角度から自我というも
のを分析し、考察しなければ、これが自我だと簡単に定
義できない非常に厄介なものなのである。
 この自我、それ自体の本質を見きわめないで、うやむ
やに自分自身を甘やかせておけば、当然のことながら、
自我のはたらきが強くなり、欲望を抑えきれなくなって
執着(しゅうじゃく)が増殖する。
 自分という一個の生命体の中の何がはたして自我なの
だろうか。
 自我はどこにあるのか、自我は生命を構成する要素に
適応しているのか、いないのか。それともうまく共存し
ているものなのか。
 このように自我というものの本質を、丹念に一つずつ
解明していけば、それなりの正しい回答は得られるであ
ろう。
 しかし人は誰も、自らの自我を観察しようとしない。
ただ久遠(くおん)の過去より現在にいたるまで、自分
を主体に考えることが習い性となり、自我とは身体の中
にあって、自分のしたい行為をよく聞き分け、もろもろ
の感覚器官を生育させ、分別(ふんべつ)をつけさせ、
おとなの身体にしてくれるもの、と、はなはだ都合よく
考えている。
 羝羊(ていよう)は動物のなかでもっとも性向が下等
だとされる。彼らはただ、水と草と淫欲のことだけを思
って生きているからである。
 だからインドでは羝羊のことを、善悪の因果を知らな
い愚かな幼児のごときなみの者の類に喩えるのである。
 聖人はさておき、このなみの者の行為、つまり身体、
言葉、意(こころ)のはたらきは、おおむね悪い面にお
いて発揮される傾向がある。
 身体がひき起こす悪いはたらきには三種ある。殺すこ
と、盗むこと、男女の道を乱すことである。
 言葉がひき起こす悪いはたらきには4種ある。嘘をつ
くこと、ののしり悪口をいうこと、二枚舌を使うこと、
うわべを飾る言辞(げんじ)を弄(ろう)すること、が
それである。
 意(こころ)がひき起こす悪いはたらきには三種ある。
貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、癡(おろか)さである。
 以上のような身体、言葉、意における十種の悪いはた
らきのその一つ一つが三悪道の世界に堕(お)ちる原因
となるのである。
 悪いはたらきは、はかりしれない悪の報いのあること
を心に銘記すべきである。悪の報いはさまざまなかたち
で人々に報復する。そしてやがては地獄、餓鬼、畜生の
三悪道に輪廻転生(りんねてんしょう)という悲惨な結
末をむかえることになるのである。
 なお、人間界、阿修羅界の両界に生を得たのは、悪い
行為ばかりでなく、善いこと悪いこと善悪こもごもの行
為が、結果となってあらわれたと思ってよいであろう。
 地獄、餓鬼、畜生、阿修羅界、人間界、この5種の迷
いの世界に生まれ変わり死に変わりする者はみな五輪、
山海に住んでいる。
 五輪とは、宇宙を構成する地、水、火、風、空の5元
素をいう。
 そこで生きものが依(よ)って住む自然界を総括した
詩を挙げる。
 生きものの住む世界は何によって生起したのであろう
か風輪が初めに空にゆきわたり水輪と金輪が連続して出
現し、地と火はそのなかにある8つの海の深さは八万踰
繕那(ゆぜんな)、9つの山は天空にそびえ立つ4つの
大洲(だいしゅう)と8つの嶋とは、人間そして、餓鬼、
畜生、地獄の宮(すみか)である。
 では、この五輪は何によって出現したかというと、そ
れは生きものの業によって生起したのである。
 さらに九山、八海の位置を明らかにすると、金輪の上
に9つの山があり、山のあいだに8つの海がひろがって
いる。
 山々の中央には妙高山(須弥山=しゅみせん)があり、
その周囲を8つの山が囲繞(いにょう)する。
 中の7つの山までを内と呼び、第7の山の外側に、人
間などの住む4大洲〔南瞻部(なんぜんぶ)洲、東勝身
(とうしょうしん)洲、北瞿盧(ほっくる)洲、西牛貨
洲(さいごけ)〕がある。
 そして、いちばん外側に鉄輪囲(てつりんい)山がそ
れらの全部を大きく取り囲んでいるのである。
 人間や餓鬼、畜生などの住む4大洲を包含する九山、
八海を一単位として、これを1千個あつめたものを小千
世界という。また、この小千世界を一つの単位として、
これが1千個で中千世界という。
 またこの中千世界を1千個あつめたものを三千大千世
界とするのである。
 けれども、この三千大千世界も、盧舎那佛(るしゃな)
の坐したまう千葉からなる蓮華の一葉一片にすぎないの
である。したがって、あの一葉の中には、実に100億
の須弥山と、100億の日月と、100億の四大洲とが
あることになる。
 このように如来の坐す蓮華のうてなの一葉一葉の中に、
それぞれ三千大千世界があり、この千個の三千大千世界
の中の4大洲に、われわれ人間など生きものが住んでい
るのである。
 ではここで、5種の迷いの世界のありさまを頌(じゅ
=詩)によって明らかにしよう。

◆地獄の世界
 地獄はどこにあるのであろうか。
 だれが自らの心のなかに地獄を観(み)ることがあろ
うか。
 2つの八大地獄がある。
 それらは炎と寒の終わりのない責苦である。
 魚や鳥のように煮られ、焼かれる苦痛はいつ消え去る
のか。
 刀剣は雨滴のように降りそそぎ、切りきざまれること
の、絶える日が果たしてあるのか。
 身体、言葉、意(こころ)のあやまちは冥界(めいか
い)での苦のもとである。
 身体、言葉のおこないを、ほしいままにしてはいけな
い。
 ややもすればそれが、地獄におちる原因となるから。

◆餓鬼の世界
 むさぼり惜しむ心によって守銭奴(しゅせんど)とな
りさがれば必ず餓鬼の報(むく)いを受けるだろう。
 涙や唾もままならず、喉が渇いて河に臨めば火炎とな
る生きていたときは紅顔の人であったが、骨ばった顔色
は灰のようである。
 いまは冬枯れの樹木のごとく、葉は飛び去って哀れみ
を誘う。
 親類も往来することなく、独り長夜の台に泣いている。
 少しの食物も分かち、その美味さを割き与える者はい
つのまにか、この苦難から脱れることができる。

◆畜生の世界
 畜生はどこから現れたのであろう。
 もとはといえば愚かな人間である。
 悪と善とをわきまえず、情も身もほしいままにし、賢
人聖人の戒めなど信じない。
 そんな彼らがどうして死後の世の、辛い報いを知るこ
とがあろうか。
 底ぬけに愚かな彼らこそ、畜生と生まれる原因である。
 強弱たがいに食いあって、助けをだれにむかって叫べ
ばよいのであろうか。
 ああ、いやしく衰(おとろ)えた彼らよ、雄羊(おひ
つじ)のような心を欲するままにしてはならない。

◆阿修羅の世界
 正法念処経にいう。
「阿修羅(あしゅら)は天の怨敵(おんてき)である。
 欲望の世界の中にあって、身体は大小に変化させるこ
とが意のままである。
 あまつさえ阿修羅は、自分の美しさを天女に認めても
らおうとして、さまざまな色の珠玉(しゅぎょく)を身
にまとい、光明は輝いて、その身体は須弥山(しゅみせ
ん)のような荘厳さである。
 心はつねにおごりたかぶり、天と自分は同等ぐらいに
思っている。
 もしこの世において、正しい教えが実践されず、父母
に孝養をつくさず、沙門を敬わず、理法にかなった行な
いをしなければ、阿修羅がのさばって偽善がはびこり、
真実は色褪せるであろう。
 阿修羅が身のほどもわきまえず、天に昇ろうとしたと
き、四天王(してんのう)は空中から雨のように剣を降
り注ぎ、強烈な陽光で阿修羅の目を射て、天宮を見せな
いようにした。
 日輪のまぶしさをさえぎろうと、阿修羅が手をかざす
と、たちまち太陽がかくれた。その現象を見て、衒学阿
世(げんがくあせい)の輩(やから)は、さも知ったか
ぶりに豊年だ、凶年だとうち騒ぐ」と。

 猿と豚と河童の化け物のような、正体がよくわからぬ
3人をお供(とも)に、経典を求めて天竺(てんじく=
インド)へ旅した、三蔵法師の物語「西遊記(さいゆう
き)」のなかに、み佛(ほとけ)の世界の広大無辺なあ
りさまがいきいきと描かれております。
 「おれのキント雲は一跳び10万8千里だ」と鼻たか
だかに、天界をわがもの顔に暴れまくった孫悟空でした
が、実際のところは、如来の掌の上を、あちこち行き来
しているにすぎなかった、といった話です。
 三千大千世界を蓮華の一葉とし、その千葉を台(うて
な)にして坐す如来の大きさがよく理解できる例話です。

 『日本霊異記』より
−狐を妻として子を産ませる縁−
 昔、美濃国大野の郡のある男が、自分の妻にふさわし
い女性を探すため旅に出た。
 そして、とある広い野原で一人の美しい娘に出遇った。
 その娘は、いかにもおもわせぶりな秋波(しゅうは)
を男に送ってくる。これは脈があると、
「娘さん、どちらへ」
「私は良き夫をもとめて旅している女です」
という。
 渡りに舟と、
「それなら、わしの妻になってもらえんだろうか」
と問うと、娘は恥ずかしげにうなずいた。
 こうして夫婦になった2人のあいだに、やがて男の子
が生まれた。
 それとちょうど前後して、その家の飼い犬も仔犬(こ
いぬ)を生んだ。
 ところがその仔犬はどういうわけか、若妻を見るたび
に、いまにも噛(か)みつかんばかりに歯をむきだして
唸るのだ。若妻はおびえて、
「あの仔犬を打ち殺してくださいな」
と夫に訴えるが、殺すほどのこともないだろうと、妻の
頼みを聞いてやらなかった。
 京に運ぶ供出米をぼつぼつ舂(つ)きはじめる節分の
頃のことである。
 若妻が、稲舂女(いなつきめ)ら下女たちのための食
事を運ぼうとして踏み臼小屋(うすごや)に行った。す
ると後から仔犬が若妻を喰(く)おうと襲いかかってき
た。
 おどろいた若妻は、あっと身をすくませると、たちま
ち姿が狐になって、垣根の上に跳び上がった。
 その有り様を見ていた夫が悲しい声でいう。
「お前とわしとは、子どもまでもうけた仲だ。だから、
お前が狐だからといって、どうして手のうらを返したよ
うに薄情なことができようか。これからも毎晩来て寝る
がよい」
 夫の、このやさしい言葉にしたがって若妻の狐は“来
ツ寝”たという。岐都祢(キツネ)の語源ともいわれる。
 そうこうしているうちに、かの若妻の狐はある晩、夫
の寝所で赤い裳(も)すその衣をつけた美しい装いのま
ま息を引き取った。
 夫はそのきれいな死顔に見入りながら、妻を恋う歌を
詠んだ。

   恋は皆我が上(へ)に落ちぬたまかぎる
       はろかに見えて去(い)にし子ゆえに

 歌意は、自分は恋のとりこになってしまった。ほんの
少しのあいだ私のまえに現れて、そして行ってしまった
彼女ゆえに……。
 そのため、二人のあいだに生まれた男の子の名を岐都
祢と名づけて大切に育てた。その子が成長すると、力の
強さは尋常でなく、走ると鳥のように疾(はや)かった
という。


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