■四天王(してんのう)と三羽烏(さんばがらす)■
「四天王」はみ佛さまの四方を堅く守る、守護神といわれます。
四天王は威神力をもち、帝釈天に仕(つか)え、四方をお守りする
護法神(ごほうしん)です。
四天王とは、東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の
多聞天です。四天王の御姿は甲胄(かっちゅう)をつけた忿怒(ふん
ぬ)の武将形で邪鬼を踏みつけた、力強い神像です。
寅さんでよく知られた帝釈天は梵天(ぼんてん)と共に「佛法」を
護る神とされ、また十二天の一で東方の守護神とされます。本来は古
代のインド神話のインドラ神が佛教に取り入れられたもので、多くの
信心を集めています。
ここから、武道や諸芸能など、ある道、ある一門、部門にもっとも
秀でたもの四人を表すのに四天王という言葉が使われました。
■「三羽烏」のほうは、例えば、会社内などに、三人のやり手がいる
時など、「三羽烏」などという言い方がされます。
烏(カラス)は賢い鳥で言葉を覚えたり、木実を道路の走る車にひ
かせて割って食べたり、最近は生態の研究も進んでいます。
烏の賢さからか、一門やある方面における三名のすぐれた者を称す
る時に用いられます。
古来、烏は聖地の熊野の神の使いとして知られ、また烏天狗(から
すてんぐ)といい烏のくちばしや羽を持ち神通力を持つと想像された
天狗の伝説もあります。
現代はどちらかといえば烏の狡猾さが言われますが、古典に「烏に
反哺(はんぽ)の孝あり」という良い故事があります。烏が親に養育
された恩に報いるため、子が成長した後、老親の口に餌をふくませ、
親の尊い恩に報いるという麗しいたとえがあります。
現代の「経営」という言葉は一般に事業など経済的活動を継続的に 運営することをいいます。
佛教用語の本来の用法としては『太平記』のなかに「偏(ひとえ)に後生菩提の経営を…」とあり、簡単にいえば「ひたすらに、どう すれば極楽に行けるか工夫すること」を意味しています。
つまり、「経営」は、創意工夫、努力して物事を成すことという意味で使ってあります。
佛教語としては「寺院の七堂伽藍(がらん)など、大きな建物を建立するときに、まず縄張りをして、現代風にいえばまず測量して、 杭打ちをすること、それから基礎を定めて建物などを造ること」を「経営」といっているわけです。
さらに経営という言葉は「色々あれこれと世話や用意をすること、忙しく活動奔走すること」という意味でも使われています。
経営者といいますと企業を経営するさいの責任者という意味に使われています。これは、昔流に言えば、規模の大きな社屋など皆 が安心して働ける建物を拵(こしら)え、暖かい家庭が築けるように合わせてどうすれば極楽浄土をこの世に拵えることができるか、 つまり、社会の発展や福祉へ貢献することを一生懸命に考える人を表すことになりましょう。
嫌々働いて自らが地獄の様相をつくることもありますが、大きな善意をもって全ての人に安心して住める家と安心して働ける場所を 与えたいと願って努力し、事業を計画し継続する、この思いが経営の本質でありたいものです。
勤勉・実直、創意工夫など日本的経営の良い点をますます伸ばし社会全体として生涯にわたり能力を生かして働ける場の創出は、 これからの高齢化社会に最も必要なことといえます。
現代使われている「ホラ吹き」というのは蔑称として「大言(たいげん) を吐く人」という意味から、さらに「でたらめやウソを平気で言う人」という全く悪い意味で使われています。
ホラ吹きのホラは、佛教用語の「法螺」貝で、「法」はみ佛さまの教えのこと、「螺」は巻き貝という意味の漢字です。
「法螺貝」は美しい貝でもあり、み佛さまへの御供物ともされますが、み佛さまの「説法」と「諸魔退散」の象徴とされています。
法螺貝を吹く音は大きく威力があり、遠くまで聞こえますので、百獣の王の師子が吼(ほ)える「師子吼(ししく)」のようともいわれ、み佛さ まの説法が人々を心服させるようすをいいました。
法螺貝は、僧侶が山林修行の時に獣などを追い払うために携えたり、佛教の法要の前に前触れとして荘重に吹き鳴らされたりします。また軍陣の 合図に用いられたので「陣貝」とも言われます。
法螺は本来は良い言葉であったものが、一般社会に溶け込んだ反面、悪い意味で揶揄(やゆ)するたとえとして使われるようになった一例です。
人間というものはいい気になって喋っていると、つい他人をおとしいれる言葉が出たり、虚言が口から出やすいものです。ホラ吹きと言われない ように、実(まこと)しやかなホラに悪縁をもたないように注意したいものです。
言葉を口から出そうとする時にはよく考えて良識ある言葉で、み佛さまの心を表すように暖かい言葉を口にするようにつとめたく思います。
◆ 法 螺 貝 ◆
ホラガイは南洋に生息するフジツ
ガイ科の巻貝で、約40cm前後の
大きさになり、白地に茶色の美しい
模様が特徴です。
貝の端を切り吹き口を付け、飾り
紐を付けて佛道の行者は腰につけ、
法要や行場で吹き鳴らします。
◆礼拝(らいはい)◆
佛教用語や漢字は中国から伝わって来たので、伝来当時の音で読まれることが多く、佛教では「礼」という漢字を含む用語は、例えば礼拝(らい はい)、礼佛(らいぶつ)、礼讃(らいさん)などと読まれることが多いようです。
また「礼(れい) 」という徳目は、中国の『儒教』で最も重要な道徳的観念として「礼記(らいき)」などに説かれています。
礼儀作法といわれる徳目は、社会の秩序や良い人間関係を保つための生活上の言動の様式で、主に儀式や制度で重んじられてきましたが、日常の 作法、社会的な行動規範、さらには文化などを発展・洗練させるための徳行ともなります。
現代でも個人が発展して評価される過程で、礼儀作法がやはりいまだに重要な要素となっています。
礼拝(らいはい)は、佛教儀式や祭祀(さいし)、信仰の中心となるものです。人間として最も慎ましく、従順であること、誠実であることを、 自らの身体をつかって表明し、敬虔(けいけん)さを表し、後の礼儀作法の基本となった所作です。
◆敬礼(きょうらい)◆
敬礼(きょうらい)と読まれると佛教語で恭(うやうや)しく、み佛さまを拝むことをいいます。
敬礼(けいれい)と読めば、現代では警察官や自衛官の方々が、職務の際に、右手の指を揃え、自分の頭の横方にやり、敬意を表して礼をするこ とをいいます。
警察官や自衛官などを職務とされる人は、よく訓練されておられ視線が定まって態度も機敏なものです。口を閉じて顎(あご)を引き、背筋が伸 び、指先まで真っ直ぐに伸びて緊張し、注意力が行き届いたその姿は、僧侶の威儀(いぎ)を正す修行にも通ずる美しさがあります。
人間の美しい所作、真摯(しんし)な態度、敬虔な祈りの姿は、佛神の御心にかなうものであり、他の人々にも清々しい感動を呼び起こし、その 人の精神性高さや職責の誠実さを伝えます。
◆礼讃(らいさん)◆
本来は佛教用語で、三宝〔さんぽう=佛・法・僧伽(さんが)〕を篤く信じ、恭しく礼拝(らいはい)して、その功徳(くどく)を讃嘆(さんた ん)することをいいます。
現代では礼讃の前に名詞をおいて「自然礼讃」「美味礼讃」などいろいろな造語に用いられていますが、良いものに感動して、讃えて周りの人々 にも伝えようとする気持ちが含まれています。
現代では憲法擁護、平和擁護などの熟語のように使われて、大切に維持するように守る意味があります。佛教用語では「擁護(おうご)」と読ま れることもあり、「応護」とも書かれます。
「擁」という漢字には「いだく」「かばう」という意味、「護」は「まもる」と言う意味で、ともに大切にするという意味があります。
「擁護(おうご)」は「保護者」という意味で、そのままで「み佛さま」を表すことがあります。人々の心からの願いや祈願に応じて、み佛さまが その念ずる人々を護(まも)ることをいいます。
新年の厄除け・星まつりのおはらいでは「諸善神皆来擁護、諸悪星退散」とご祈祷されます。
人間関係でも熱意を示してお願いすることは大切な要件ですが、神佛も熱心に願う者のほうを向いて下さり、擁護下さり、御力を与えて下さると いうのは真っ当なことです。
心を弱めず一心に願う、擁護を願い続けるということが、み佛さまの御心にもかなう真摯(しんし)な態度でもあります。
◆加護(かご)は、神佛が御威力を特別に加えて護(まも)って下さることですが、詳しくは「加被護持(かびごじ)」の意味です。つまり、み佛 さまが御力を加えて、能(よ)く人々を護持して、佛の御力を表し示されることをいいます。
◆本尊守護の守護(しゅご)は「守」も「護」という漢字も、共に「まもる」という意味です。守り、警護することです。「神佛のご守護を願う」 などとよく使われます。
日本史では守護職といって鎌倉・室町幕府の職名で、1185年に源頼朝が勅許を得て国々に設置し、大番の催促、謀叛人・殺害人の検断などに 当らせたものをいいます。権力拡張の結果、次第に領主化して、室町後期には守護大名と呼ばれるようになりました。
◆冥護(みょうご)は、おかげという言葉がありますが、神佛が人々を知らず知らずのうちにも守って下さることをいいます。
「冥(みょう)」とは人の目には見えない不思議な神佛の御働きについていう言葉です。冥加(みょうが)と同義とされています。人として常に神 佛へのご恩について感謝があり、想いをめぐらすことができる時にはじめて、「冥護」は知ることができる御力であるかも知れません。
「おしょうさん」と言えば現代では一般的に住職さんへの呼称となっています。一寺の住職さん、あるいは一般に僧侶への呼称としてよく使われています。
また「お坊さん」という言い方は、修行のための僧坊の監督責任者である坊主、僧坊の主という意味からきているようです。
お上人(しょうにん)さまという言い方もあります。本来は学徳を備えた僧侶として、僧侶の敬称として用いられました。さらにはお聖人(しょうにん)さまという言い方もあります。
和尚の読み方には宗派によって「おしょう」「わじょう」「かしょう」などと読まれています。
古代インドのバラモン教での師匠の尊称を佛教が採り入れたもので、発音の写しが中国で漢訳され、親教師、依学、戒和尚という漢訳語もあります。
佛教が公伝して以来、学徳の高い官僧としての位階が与えられ、様々な尊称が使われました。758年、唐から失明と幾度の苦難を超えて日本に戒律を伝えて下さった鑑真さまには大和上という尊称が贈られています。
864年に官職の僧綱(そうごう)で法印大和尚位、法眼和上位などが定められました。以後は、社会的に高僧として尊信を集めている僧の呼称として、また自分の師匠にあたる僧侶として師僧(しそう)に使われ、和上
と書かれることもあります。
和尚とい用語は平安時代以来、大衆を導かれる師たる高徳の僧の尊称として用いられました。僧侶が葬儀や法事を専らに勤めるよになったのは宗門改が始まった江戸時代以降のことで、僧侶の本来は会いに来られる人々の
救済、社会福祉のため、人生の導師としての役割があります。
広島県知事、知事選挙など、知事といえば県知事に取られてしまったようですが、本来の意味は僧侶の団体で、雑事庶務を司(つかさど)り、僧物(そうもつ=教団 の財物)を保全する僧侶の役職名が「知事」です。
延喜9年(909年)、奈良東大寺の造寺申請のなかに「知事4人を置く」とあります。
もっとも現在のお寺で‘知事さん’を置いているところはありません。
「知事」は徳を積んだ僧侶で、道心堅固、仁義を大切に、柔和であり、常に寺を清掃し、壊れたところがあれば修理し、夜は門を閉じ、朝は門を開くといったよう な仕事を寺の中でしていました。
現代では、理事長とか常任理事、理事会というように使われています。
佛教では、「理(り)と事(じ)」または「事と理」というように使われ、究極の真理を「理」といい、現象世界を「事」といいます。
事と理が即して不二(ふに)の関係にあることを「理事不二」といい、精緻な思想で展開されましたが、事を理(おさ)める人として中国で理事という官職ができ ました。
講師(こうじ)は法華会(ほっけえ)とか最勝会(さいしょうえ)など、経典読誦(どくじゅ)の法会(ほうえ)で経典の解釈をする人のことです。佛教用語では、 ‘こうし’とは言わず‘こうじ’と言います。
「教授」は佛教の受戒儀式作法で文字通り、教え授ける人、教授師、教授阿闍梨(あじゃり)、教授善知識、教授和上というように使われます。
近年は何かと講演会ばやりのようで、講演会で話をする人を講師といいますが講演会場を出ると‘ただの人’です。
役職名で、講師、教授といえば、大学の先生で、学問的にも人格的にもその教育分野最高の人で、お話をしていない時でも講師、教授といわれます。佛教の重要な 役職名称がいつのまにかプロフェッサー〔professor〕の訳語として日常的に使われるようになりました。
日常会話でもよく使われる言葉で「あの人は…に無頓着だ」などと使われ「…について気に掛けない粗野なようす」を表します。
語源をたどってみると、どうも佛教用語の「貪著(とんじゃく)」から派生した言葉のようです。字音が同じ「頓」に書き替えたのが伝えられたという説もありま す。
「貪著」は満足することを知らず貪(むさぼ)り、求めること、執著(しゅうじゃく=執着)すること、つまり「貪りつくこと」という意味の用語です。
それが、時代とともにしだいに、深く心にとらわれていること」「気にすること」という意味で、語源から離れて、漢字も「頓着」と書かれるようになった言われ ます。
「無貪著」は「ものに貪りつくことが無い」ことで、諸々の欲望への執着を断った高い悟りの境地を表す言葉であるとされます。
現代で無頓着と言えば、例えば、「金銭面に無頓着」と言えば「金銭に淡白で意地汚なくない」という意味と、反対に「金の使い方について節約の考え方が無 く、だらしがない」という意味の両極端に使われています。
服装に無頓着といえば、着るものにこだわらないあっさりとした性格をいう場合がありますし、反対に、服装に関して礼儀に欠けることがあると意味での、両 方が考えられます。
この「無頓着」は良い時には、あることについて、こだわりの無い、淡白な人柄という意味で、褒め言葉としても使われますが、反対に、呆れ顔で皮肉ぽも言 われることもあり、非難の気持ちも込めて使われもします。
要らぬことによく気がつく狭量な性格よりは無頓着のほうが良いことも多くあるし、無頓着よりは気がきいていて気に掛けたほうが良いことも多くあります。
佛教用語本来の「ものに貪りついて、大切なものを見失うことが無い」というような自由な心でいたいものです。
「邪魔(じゃま)」とは佛教用語では、佛道の修行の妨(さまた)げとなる邪(よこしま)な悪魔のことをいいます。
邪魔として規定されていることは、人々の平安や幸福を乱し、壊してしまうものの総称です。この「魔」という言葉は佛教語の「魔羅(マーラ・摩羅)」が 語源であるといわれています。
「邪魔臭い」は「気障(きざわ)りで、障害になっていると感じられる」という意味です。「臭い」は本来の嗅覚から離れて、整った雰囲気を乱していると 感じられる、視覚的にも鬱陶(うっとう)しい感じがするというように使われています。「邪魔立てする」という言い方は、意識的に立ちはだかるようにわざと 妨げることであり、故意に障害となるような意味があります。
現代では、本来の佛教用語としての、恐ろしく邪悪な意味が失われていて、簡単に「邪魔臭いなぁ」、「邪魔するな」などと言うように日常的に使われて います。
「お邪魔します」という言い方がありますが、相手方の仕事などの妨げになることを申し訳無いようなお詫びの気持ちをもって言った言葉として、奇妙なこと に丁寧さを表す言葉にも用いられて使われています。
「邪魔」という言葉のうち、主に自分自身の内面的なものを邪心(じゃしん)とか邪念(じゃねん)といい、外面的なことを邪魔、魔縁(まえん)などとい うこともあります。
「魔が差す」というドキッとするような表現もあります。平穏な日常の中で邪魔がとりついたかのように、取り返しのつかない言動をして自ら幸福を壊し てしまうときがあります。また、ふつうでは考えられないような悪縁の者に近づいてしまっていることがあります。
また物事でも初めは善意からであっても、善悪の判断を失い、邪心となり、邪悪な結果を生じてしまうときもあります。常に、み佛さまの教えにふれて、 不安の無い生活を送りたいものです。
「福」という漢字は福々しい、福引、福耳、福相、福祥、福祉、福の神、福音(ふくいん)、福運など、縁起の良い熟語が多い漢字ですね。
「福」は人の努力の結果というよりは、神佛からの賜(たまわ)りに近いものであるとされる、「善きこと」「幸運」「さいわい」「しあわせ」という意味 があります。
「福」は佛教でも大切な用語であり、善、功徳(くどく)、「価値ある行い」という意味、さらに、教えを実行したことから生じる良い結果、という意味があ ります。
■「福田(ふくでん)」という佛教用語は、み佛さまの教えが福徳を生み出す田畑としてたとえられ幸福を育てる田地の意味で用いられています。
人々の幸福の種が蒔かれ、はぐくまれる母なる大地と いう意味です。
観音経の中に「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」「福聚海無量」という対になった偈(げ)があります。
福徳の集まることが海のように広大であるという観音さまの福徳をたたえた偈です。
福因福果(ふくいんふっか)という佛教用語もありますが、福徳という原因によって、結果である幸福がもたらされるということで、「因果はめぐる」や 「善因善果」と同じ用語です。
現代でよく使われるのは「皮肉を言う」「皮肉っぽい」などで、直接核心にはふれず遠まわしに、しかも意地悪く相手の弱点などを指摘して言う、「あて こすり」を言うという意味があります。
率直でない言い方を故意にすること、カチンとくる言い方、人の心を傷つけるようにわざと浅薄なことを言う意でしょうか。
「皮肉な運命」「皮肉なめぐりあわせ」などという言い方は、物事がどちらかと言えば悪いほうに違った結果になる、意に反した結果になることをいいま す。
この言葉の語源としては、中国禅宗の初祖である達磨大師が4人の弟子にむかって、「皮肉骨髄」という言葉で、悟りについて教えた言葉として伝えられ ます。
人間の身体は表面から内部、皮・肉・骨・髄の順になりますが、悟りの浅い深いの程度を、人間の身体に例えて表層の皮から深い骨の中の髄までに、たと えて教えられたと伝えられています。
ここからさらに「皮肉骨髄」は身体の全てを表し、祖師(そし)の思想、信心、徳行、言動などのすべてをいう時にも使われています。
「皮肉」と「骨髄」の2つに分けると、皮相的なものごとと深い真髄をいうこともあります。
皮肉は皮層部分をいい、骨や髄にまで達しないところの意で「うわべ」「浅薄」を表し、理解の浅い所を言うこともあります。
骨髄(こつずい)とは身体の中心であり骨柱であり、奥義、真の精神という意味から、心の底にある思い、さらにはものごとの最重要点とか、主眼という 意味に使われています。骨子(こっし)とも言われることがあります。
「骨の髄(ずい)まで…」とは「徹底してする…」とか「とことん…する」という意味に用いられています。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と平家物語に有名な一説がありますが、佛教の教えに基づいて書かれたと一般にはいわれています。
平家一門の栄華と衰退、その滅亡が佛教の無常観(むじょうかん)と因果観(いんがかん)に基づいて、見事に物悲しく描かれているとされています。
この「諸行無常」という佛教用語は、本来は、「すべてのものごとは常に変転して止むことが無い」、「つくられたものは全て移りゆく」、ということを あるがままに冷静に表した言葉です。
佛教用語の「無常」は、単に「常ではない」「永遠ではない」「不変ではない」というだけのことで、それがただちに衰退や滅亡、死、儚(はかな)さと いうものを意味する用語ではありませんでした。一般的なイメージとしてあるような「無情」とか「悲観」という意味は無いものでした。
命あるものは成長し、やがて老い、死んで往(ゆ)きます。この世のすべてのものは変化し、壊れ、また新たに創られて行きます。
ものごとにとって「常で無いこと」「移りゆくこと」は当然のことであり、自然なことなのですが、日本的な情緒といいますか、悪く行く方向だけ、衰退 する寂しく悲しい面ばかりが強調されてきました。
ものごとが永遠に同じ状態である、不変である、壊れない、とすれば、この地上はたちまちにあふれ、全く退屈なことであり、人間の向上も創造の喜びも 無く、存在の意味も無いものとなります。
日本の四季の移り変わりは、美しい無常であり、気象の変化も大きな神秘な摂理(せつり)です。心楽しいことには快い変化があり、生き物たちには変化 に富む活動があり、子孫の繁栄があります。
ものごとは諸行無常だからこそ学習の効果も上がり、向上も、修正や改善もあるわけです。無常だからこそ日々を大切に感謝し過ごしたいと願い、変化す るからこそ努力の甲斐もあり、変化をも楽しむこともできます。