[総合目次][民の声] [観音院門前町] [バーチャル霊園] [寺子屋]
[観音院][観自在][English vergion is here.]


十住心論四季の閑話 月刊「観自在」7月号掲載

 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の十二 

                        観自在編集部


第七住心「覚心不生心(かくしんふしょうしん)」について

 それ大虚(たいこ)寥廓(りょうかく)として、万象(ばんしょう)を
ここに|気(たいき)に含み、巨壑(きょがく)、泓澄(おうとう)とし
て、千品(せんびん)をここに一水に孕(はら)む。
誠に知りぬ、一は百千が母たり。空(くう)はすなはち仮有(けう)の根
(もとい)なり。仮有は有にあらざれども、有有として森羅(しんら)た
り。絶空は空にあらざれども、空空として不住なり。色(しき)は空に異
(こと)ならざれば、諸法を建てて宛然(えんねん)として空なり。空は
色に異ならざれば、諸相を泯(ほろ)ぼして宛然(えんねん)として有な
り。この故に色はすなはちこれ空、空すなはちこれ色なり。諸法もまた爾
(しか)なり。何物か然(しか)らざらん。    [弘法大師・空海]


 大空はひろびろとして静かであり、天地をつらぬいて、すべての物を生
成する根元である。大海は深く澄みとおって、限りなく多くのものを水に
はらんでいる。
 このように、一は無数のものの母胎(ぼたい)である。同様に、三論宗
(さんろんしゅう)で説く空(くう)は、現象――人間がそこに在(あ)
るとして見ている物の相・形――しているものの根本である。つまり現象
として見えているものは、実際は実在するとはいえない。が、人間の眼に
は、それぞれのものがさながら現存(げんそん)しているように見える。
絶対の空は、対立を超(こ)えて比較する方法がないから、何が空で、何
が空でないか、その空そのものをも否定するものとして、本当の空の所在
が特定できない。
 存在するものは空にほかならないから、どのような理屈をつけようとも、
それはどうしても空なのである。

 すなわち空は、存在するすべてのものと異質でないから、存在するもの
の姿かたちを否定しても、それらはそのまま、さながらにして存在する。
だから存在するものは空であり、空はまた、そのまま存在するものなので
ある。もろもろの現象している存在もまた同様であり、そのようでないも
のは何一つとしてない。
 それはあたかも一滴の水と水が互いに結合して、大海を形成しているよ
うなものである。

 真理は一様(いちよう)でなく、さりとて二面性があるのでもない、と
説き、真諦(しんたい)、俗諦(ぞくたい)という二つの真理とか、対偏
中・尽偏中(じんべんちゅう)・絶対中・成仮(じょうけ)中という四種
の概念が説かれる。
 このように空というものの本質は、とらわれのないこととさとり、八つ
の否定、すなわち、生起しないこと、消滅しないこと、断絶しないこと、
永遠でないこと、一つでないこと、異ならないこと、去り行かないこと、
やって来ないこと、この八不(はっぷ)によって無益な論議をしりぞける。

 そうすれば、貪(むさぼり)り、瞋(いか)り、痴(おろ)かさなどの
煩悩(ぼんのう)も、さまざまな苦を生ずる色(しき)・受・想・行(ぎ
ょう)・識(しき)による蘊魔(うんま)もおのずから退散する。

 生死(まよい)がそのまま菩提(さとり)となり、大いなる安らぎであ
るから、何が上で、何が下などの階級のつけようもない。
 煩悩が、とりもなおさず菩提(さとり)であるから、ことさらに煩悩を
断ってさとりを得る苦労もない。しかしながら、階級がないとはいっても、
一応の順序はあるから、菩薩の修行の段階である十信、十住、十行、十回
向(えこう)、十地、等覚、妙覚の五十二位はそこなわない。本来、わけ
へだてがないから、一念にさとりを完成することを妨げない。一念の間に
無限に近い時間を経(へ)て、みずからの実践につとめ、さとりの道ひと
すじに、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩の三乗(さんじょ
う)をのせて走らせ、人々を導くのである。

 第四住心「唯蘊(ゆいうん)無我心」の立場が、あらゆるものに実体性
がないことを知らないのを悲しみ、第六住心「他縁大乗心」の立場が、認
識する対象と認識主観を分かつことを嘆(なげ)く。

 人間の心は、もともと清らかなものを希求し、濁(にご)り動揺する波
を静めようとするほうにはたらく。人々を救済する手段としての、仮(か
り)の智慧(ちえ)と真実の智慧とは、唯一の絶対真理において、完全な
さとりを達成し、最高の真理と世俗の真理とは、絶対中道において教理を
得る。心の本性(ほんしょう)は生起しないことをさとり、認識の対象と、
認識主観とは異ならないことを知る。これがすなわち三論宗(さんろんしゅ
う)の教義である。

 心主(しんしゅ)とは心の本体のことである。存在・非存在にとどこお
らないから、心にさわりなく、自(みずか)らを利し、他者を利益(りや
く)するすぐれた行為を意のままに良くする。だから心主は自由自在であ
るという。
 心が自由自在とは、きよらかな菩提(ぼだい)を求める心が、さらに上
の世界をめざして向上し、以前の住心より一層すぐれていることを明らか
にする。
 心の本体が清らかなことは、水が本来清らかであるように、心のはたら
きによって浄化され、かりそめの汚(よご)れが、また元通りの清らかさ
を取り戻すようなものである。それゆえ、心の本来の清らかさをさとると
き、自らの心は、本来生起しないものであることをさとる。何故なのか。
心は過去にも未来にも、ともに把捉(はそく)しがたいものだからである。

 それはたとえば、大海の波は、風という条件によって起こるものであり、
風が吹く前にも後にも起こらない。しかも水の本性は、波と同じではない。
波が風という条件によって起こるとき、水の本性が失われるわけではなく、
波を起こす風という条件がなくなったとき、水の本性がまた回復するわけ
でもない。
 心の本体もまたこれと同じで、あと先の際限(さいげん)も、区別もな
い。前後の区別がないから、また心の外の世界の風に出遇うと、その風と
いう条件にしたがって、心のはたらきが起こったり消えたりする。けれど
も心の本性は、つねに生滅(しょうめつ)することがない。

 このように、心は本来生起しないものとさとってしまえば、これはよう
やく阿字門(あじもん)――万有(ばんゆう)一切の本源を不生(ふしょ
う)の阿字で象徴する部門――にはいったことになる。

 このような生滅を離れた絶対の真実や、生死の条件と原因、生起と消滅
などの意味は、「勝鬘(しょうまん)経」「宝性(ほうしょう)論」「佛
性(ぶっしょう)論」等のなかに詳しく説明しているとおりである。すな
わち、本来生起しないというのは、さきの意味のほかに、生じない、滅し
ない、断絶しない、連続しない、一つではない、別でもない、去らない、
来ることもない、という八つの否定の真理を明らかにする。

 この地球上に存在するあらゆるものは、たえず生滅変化して、ずっと同
じ状態にとどまることはできません。
 すべてのものが移(うつ)ろい変わり、再生し、循環するという連続運
動のくり返しといってよいでしょう。
そして、それらのものは、相互に関係しあい、因縁(いんねん)生起して
存在しているのであり、人間もまた例外ではありません。

 私たち人間は、身体を構成している五つの要素――色(しき・肉体)、
受(感覚)、想(表象)、行(ぎょう・意志)、識(意識)――五蘊(ご
うん)の仮の和合から成立しているものであり、そこには本来「我」とい
う実体など存在しない・・・・という真理をさとって、生と死の相対的な苦楽
を超越した、絶対の境地に到達することを説いたのが、ほかならぬ佛教な
のです。

「覚心不生心」とは、心不生(しんぷしょう)を覚する心という意味で、
この住心(じゅうしん)の柱となる三論とは、三部の論からきています。
 それは竜樹(りゅうじゅ)の「中論」と「十二門論」、提婆(だいば)
の「百論」であり、竜樹は二世紀頃のインドの哲学者、提婆はその弟子で
す。これらの三論は、いずれも五世紀初頭、鳩摩羅什(くまらじゅう)に
よって漢訳され、七世紀初め、隋の時代、吉蔵(きちぞう)三蔵によって
大成された宗旨が、いわゆる三論宗です。

「中論」は、私たちが日常実際に見たり触(さわ)ったり、あるいは概念
として捉(とら)えているものは、すべて真の実在ではない。存在の真の
相(すがた)は有と無の相対を離れた中道、すなわち、絶対の空の立場に
おいて捉えられねばならない、というものです。

 そして、すべてのものが空であるという真の相は、それが因縁生起によ
るものである、ということの認識において成り立つとしています。その理
(ことわり)を明らかにするために中論は、一種の弁証法(べんしょうほ
う)を用(もち)いています。
 弁証法とは、矛盾(むじゅん)し、対立するから、答えが出ないと決め
つけないで、ものごとの対立、矛盾を通して、それを大きく統一し、その
統一によって、より一層高い境地(きょうち)に進むという運動、発展の
姿において考える見方のことです。
 中論の冒頭にある有名な八不(はっぷ)の偈(げ)「不生(ふしょう)
・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不出」を法の真相であるとし、
これを教えるお釈迦さまを最高の師として敬(うやま)っております。

 次に「十二門論」は、因縁などの十二の問題をもうけて、中論と同じく、
一切はすべて空である、という意味を解きあかしています。たとえば、
「因縁を観ずる門」をテーマにした偈文(げもん)で、「法すなわち存在
は、因縁によって生ずる。ゆえに、それに自性はない。自性がなければ、
どうして個々の存在があるといえようか」などというのがそれです。
「百論」も中論と内容はよく似ていますが、ただ、ここでは破邪(はじゃ)、
すなわち邪説を論破(ろんぱ)することに主力がそそがれております。


 貧しい女、丈六(じょうろく)の釈迦像に
      ご利益(りやく)を願い、大福を得る縁
                      「日本霊異記」より

 聖武天皇の御世(みよ)、奈良の京(みやこ)大安寺(だいあんじ)の
ほとりに、一人の女人が住んでいた。食べるものにもこと欠く、それはみ
じめな暮らしをしていた。
 あるとき女は、大安寺の一丈六尺の佛像が、衆生(しゅじょう)の願い
をよくお聞きとどけになる、という噂を伝え聞いた。

 そこで早速、佛に供養する花と香(こう)と灯油を買って、佛像を拝み
に行った。そして祈った。
「私は前の世に、現世が幸福に送れるような善(よ)いおこないを何ひと
つしませんでした。そのため、いまこんな貧困の報(むく)いを受けてい
るのでしょうか。お願いです。どうか私にお金をお授けください。貧乏を
お救いください」と、その日から女は、毎日毎日、釈迦像にお参りして、
一心不乱に拝んだ。
 何ヵ月か過ぎたある朝のことだ。起きてみると、家の軒下(のきした)
に銭が四貫置かれていた。それに短冊(たんざく)が付いていて、大安寺
の学問基金、と書いてあった。
 女は驚きあわて、お寺へとんで行った。これこれこういうわけです、と
事情を説明する。
 それは大変と、大安寺ではさっそく銭を納(おさ)めてある蔵を調べた
が、蔵にはちゃんと錠(じょう)がかかったままであった。ただ、銭が
四貫だけ不足している、はて、おかしな事があるものだと、僧らは怪訝
(けげん)に思いながらも、その銭を受け取って蔵に納めた。

 女は、これまでどおり、また丈六の佛像に花香油(けこうゆ)をお供え
し、一心に拝んで、家に帰って寝た。
 そして翌朝起きて庭を見ると、またそこに銭四貫がある。やはり短冊に、
大安寺の浄財、と書かれている。女はこれも寺に持って行く。僧らが蔵を
調べるが、どこにも異常がない。だが、蔵の中の銭四貫が紛失しているの
で、みんな頭を傾(かし)げながら、その銭を蔵に納めた。

 女は、今はすっかり日課となっている釈迦像に、よくよくご利益(りや
く)を願い、家に帰って寝た。
 翌朝、もうそんなことはないだろうと、起きて戸を開けると、しきいの
前にまた銭四貫があるではないか。短冊には、大安寺の三論衆銭とある。
女が寺に持って行き、僧が蔵を調べ、錠に異常がなく、銭四貫が無いのは
前と同じである。

 こうなるとお寺としても、この不思議な現象を放置するわけにもいかず、
大安寺の主(おも)だった僧らが会議を開いた。その席に女人(にょにん)
を呼んで質問する。
「あなたは、なにか特別のことをしているのではないか。それとも奇術の
ワザでも身につけているのか」
「いいえ、私は貧しく、よるべもなく、これから先、どうして生きてゆけ
ばよいのか心細いあまり、このお寺のお釈迦さまの佛像に、花香油をお供
えし、ただただご利益をお願いしていたばかりです」と、女が答えた。
 これを聞いた衆僧(しゅうそう)は、相談していう。「そういうことな
ら、これはみ佛(ほとけ)が、この女人にお与えになった銭だから、われ
われが勝手に納めるわけにはゆくまいて・・・・」といい、女に銭を返すこと
にした。

 女人は銭四貫を得(え)、増上縁(ぞうじょうえん=他のもののはたら
きを増進させる縁)とし、豊かな富に恵まれて、幸せな一生を過ごしたと
いう。まことに知る。一丈六尺の釈迦像の不思議な力と、この女人のまご
ころが奇蹟(きせき)を示したことを。

前稿/其の十一(97/06)次稿/其の十三(97/08)


ご感想やご質問はこちらに


観音院のホームページ月刊「観自在」の目次

[総合目次][民の声] [門前町] [霊園] [寺子屋] [観音院][観自在] [English]