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月刊「観自在」十住心論四季の閑話

− 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の十一 −

                     観自在編集部

第六住心「他縁大乗心(たえんだいじょうしん)」について

「是(ここ)に芥城(けじょう)竭(つ)きて  還(ま)た満ち、
 巨石鄰(ひす)らいで  復(ま)た 生(しょう)ず」

 お大師(弘法大師・空海)さまは、菩薩の修行が無限の時間を必要とす
ることを、このように形容されています。芥城、巨石とは、芥子劫(けし
こう)、石劫(しゃっこう)のことです。
 芥子劫というのは、広い城郭に一杯、芥子粒をつめこみ、それを百年に
一粒ずつ取り去り、全部なくなるまでの、無限に近い時間のことです。
 石劫は、大きな石を百年に一度、天人の羽衣で払い、その巨石が磨(す)
りきれてなくなるまでの時間ですから、気の遠くなる話です。

 菩薩の修行は、十信(じゅうしん)、十住(じゅうじゅう)、十行(じ
ゅうぎょう)、十回向(えこう)そして十地(じゅっち)に入り、初地か
ら第十地の修行を完了する段階までが三阿僧祇(あそうぎ)劫という時間
経過であり、それから第五十一位等覚の菩薩となり、最後に妙覚を証(しょ
う)して佛(ほとけ)となるとされています。
 なお菩薩の修行すべき五十二の階位のうち、第十一位から第四十位まで
を三賢位(けんい)といい、十住、十行、十回向がこれに該当します。

 お大師(弘法大師・空海)さまが、菩薩の修行についてどのように述べ
られているのか、駆け足で拝見いたします。

 大いなるさとりを得るためには善行を積むことによって得た力とさとり
を求めようとする願いを縁(たより)とし、決して中途でくじけない決心
を推進力として、どんな誘惑にもその意志をまげない。しかし、十地の前
の段階である十住、十行、十回向においては、まだ煩悩を払拭するまでに
は至っていない。
 この位の菩薩は、大乗の教えを繰り返し聞くことによって得る力と、善
き友と、善行に心掛けることと、さとりの原動力となる行為、この四つの
すぐれた力によって唯識(ゆいしき)の真理を信じ、理解するけれども、
法空(ほっくう)を了解するまでには至っていない。多くはさとりの外側
にあって菩薩の行(ぎょう)を実践する。
 この位では、欲望と常識が修行の妨げとなり、さとりを求める実践の際
三つの障害があるが、次の三点によって心を錬磨すべきである。

(一)真実正しいさとりは、広く大きく深く遙かと聞いて、尻込みし逃げ
出したくなるが、すでにさとった人のことを思って錬磨する。

(二)施しのさとりに到る修行は、難しいと聞いて心が臆するが、自分を
反省してますます努め励む。

(三)ときに応じて変化する諸佛の心を実証することは、至難と聞いて尻
込みしたくなるが、他の不完全な事柄を自己の善意とひき比べて励みとし
錬磨する。

 三賢位のうち「十住」は、修行によってさとりをひらく素質を持つ者が、
さとりを求めて大乗に入ることである。その間修行一途に後退することが
ないから住(じゅう)−とどまるという名を当てるのである。


 「十住」の心は、十に分類できる。

一、佛法僧(ぶっぽうそう)と衆生を見てさとりを求める発心(ほっしん)
のきっかけとする。

二、衆生に利益する気持ちと、自分に利益(りやく)する行為のために、
過去世、現在世、未来世の一切の佛法を知り、修学し、諸佛の平等である
ことを学んで、菩薩としての慈悲の心をたかめる。

三、彼岸への道の実践によって、すべての存在の無常と苦と空(くう)と
無我を観察し、菩薩の智慧(ちえ)をめざす。

四、衆生と世の中と、行為と行為の報いと、生死の迷いと大いなる安らぎ
を知る。

五、他人を利益する実践によって十心を起こす。
(救護=くご・饒益=にょうやく・安楽・哀愍=あいみん・度脱一切衆生、
 会一切衆生・・・・離諸災難・出生死苦・発生浄信・得調伏・咸証涅槃)

六、存在するすべてのものは、相がなく実体性がないこと、すなわち不生
不滅である真理を得ようとして疑心を起こさない。

七、存在するものとしないもの、たとえ佛の存在性を否定されようとも、
信じる決心がゆるがない実践。

八、身体と言葉と意の行為に誤りがなく、衆生の欲望、行為を知り、佛の
浄土を求めようとする。

九、この世に生物がなぜ生まれてくるかを知り、迷い悩みがどうして起こっ
てくるかを知る。

十、あらゆる生きものの悪心を取り除いて救済し、さとらしめ、みずから
深いさとりの境地を得て、すべてが理解できる智慧を身につけようとする。


 「十行」とは、善い行為の成果を育もうというもので、修行の実践を主
眼とするので行という。
 迷いを厭(いと)い、さとりを求め、生きものをあわれみ、最高真理と
世俗真理を実践して障害を克服する。そのとき功徳林菩薩は、佛の説教を
うけて菩薩の「十行」をお説きになる。
 そこに雲のごとくに集まった大勢の菩薩がさとりを開かれる。

 「十行」の、[一]つは、施しを実践してすすんで自分の所有物をことご
とく恵み、そのことに喜びを感じ、施される者も永くその好意を感謝して
忘れない。

[二]は、戒を実践して浄(きよ)らかな生活規律を守り、自己を利益し、
他を利益(りやく)する行為である。そしてまだ救済しない者を救済して、
迷い苦しみから解放する。

[三]は、忍耐を実践してつねにへりくだり、うやまい尊敬する。自我を無
にすれば自分、他人のへだてがなくなるからである。

[四]は、たわんでへこたれない行為つまり努力することである。

[五]は、深い瞑想を実践して心の惑乱を抑え、正常心を維持する。
 ここに死にあそこに生まれたとしても、どの母親の胎に入り、どの母親
の胎から出ようとも、心に惑(まど)いと乱れがない。恐怖の声や喜びの
声を聞いても瞑想が破れることはない。

[六]は、身体と言葉と意の三つの、はたらきを清らかにして、衆生のつね
にいたらなさを念(おも)い、もしまだこの愚かさが取り除かれていない
ならば、自分がそれを取り除き、さとりに到らしめようとする。

[七]は、救済の方法を実践して衆生に利益する。もろもろの佛は影のごと
く、菩薩の行為は夢のごとく、説法は響(こだま)のごとしと観察して、
自己の利益(りやく)、他者の利益につとめる。

[八]は、菩薩は衆生の願いをよく聞いて、船頭のように、こちらの岸から
向こう岸へ人々を渡し、一言のほめ言葉も恩返しも求めない。

[九]は、善い教えを実践して、無限に近い衆生の質問にも、それぞれに解
答を用意して、疑問と惑いを取り除く。

[十]は、真実を実践して、真実の言葉を完成する。自由自在な佛の不可思
議の力を示現して、親しみ近づく者には歓びを与え清浄にする。


 十回向(えこう)とは、打ち壊すことのできない十の金剛であり、自分
が実践した善行、功徳(くどく)を、衆生と菩提(ぼだい)と涅槃にその
成果をかぎりなくふりそそぐ。そのとき金剛幢(どう)菩薩は佛の不可思
議な力をうけて菩薩の十回向をお説きになり、無数の菩薩が雲のごとく集
まってさとりをひらく。

一に、一切衆生を救済する回向とは、この菩薩の実践する六度、四無量心
(しむりょうしん)が衆生のための光明となって根源的な闇をうち破る。
一つは衆生に善行、功徳をめぐらし、二つは菩提に回向し、三つはすべて
の法の真実性に回向する。

二に、うち壊すことのできない回向とは、この菩薩は佛、法、僧に対し、
強固な信心を得、声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚乗、菩薩乗の三つの
教えの信心がますます強まり、無量の供え物をもって佛を供養する。

三に、すべての佛に功徳をめぐらすとは、この菩薩は過去、未来、現在の
もろもろの佛の回向の道にしたがって学び、どんなに美しいものや醜いも
のを見ても好き嫌いの愛憎を感じない。

四に、すべての場所に到る回向とは、この菩薩は善行を実践するとき、ど
んな所にも過不足なくいきわたるように供養しようと願う。

五に、尽きることのない回向とはこの菩薩は浄らかな行為と深い瞑想によ
り、よく佛の仕事をし、人々の素質に応じて巧みに教え導く。

六に、堅固なる善行の功徳にしたがう回向とは、この菩薩は四摂法によっ
て衆生に接し、求められれば自分の妻子や宝、手足までも喜んで施す。

七に、すべての衆生にしたがう回向とは、この菩薩は、これまで積み重ね
た善行の功徳にしたがって瞑想(めいそう)にはいり、智慧をもって一切
衆生の心と行為の離反を観察してことごとく清浄にする。

八に、真実のあり方に回向するとは、この菩薩は真実への念いがきわめて
強く、智慧の明かりを得て善知識として認められる。如来の光はその心を
照らして、永久に愚かさ暗さを消滅させる。

九に、執着も束縛もない解放に回向するとは、この菩薩はすべての善行の
功徳を尊重し、他者を利益救済する普賢菩薩の願いを実践して、佛の位を
継ぐ儀式を受けて、一瞬のうちに人々を利益する境地にはいる。

十に、無量なる平等の真理の世界に回向するとは、この菩薩は佛の教えを
授ける師の位にあって一切衆生のために佛の教えを示し施す。


 「十地」とは、菩薩が修行すべき五十二の階位のうち、第四十一位から
第五十位までの通称で、拠り所となって生長するから地とする。
 そのとき金剛蔵菩薩は不思議な力をうけて、菩薩の「十地」をお説きに
なる。十方に限り無く多くの佛(ほとけ)が見守るなか、無限に近い菩薩
が雲のごとく集まってさとりを開く。

歓喜(かんぎ)地
 佛のみ子である菩薩は歓喜の地に住して、多くの歓びと、浄らかな信仰
と、悩みのないことと、恨み怒りがないことを成就する。諸佛の法を念じ、
諸菩薩の法を念じ、さとりに到る道を念じ、すべての如来の智慧に入るこ
とを念じ、佛の境界の中に生じ、菩薩の平等性の中に入り、すべての怖れ
から遠ざかるから歓喜を生ずる。

離垢(りく)地
 佛のみ子である菩薩は、第二地に入ろうと思うならば、十の決心をすべ
きである。いわゆる決意と、平常心と、事柄に堪(た)える心と、心身を
制御する心と、平静心と、純善心と、まじりけない心と公平な心と、広い
心と、大きな心とである。

発光(はっこう)地
 第三地に入るには十の深い真理を究明する心を起こすべきである。それ
は清浄な心、安定した心、厭い捨てる心、欲望を離れる心、退かない心、
堅固な心、光り輝く心、勇猛な心、崇高な心、偉大な心への志向であり、
この十の心への志向によって第三地に入ることができる。

焔慧(えんね)地
 第四地には十の真実を明らかにする門によって入ることができる。
 すなわち衆生界と法界と世界と虚空界と識界と欲界と色界と無色界と、
大いなる信仰によって了解する世界と、大いなるさとりを求める心によっ
て信じ理解する世界とを観察することである。

難勝(なんしょう)地
 第五地に入るには十の平等な清浄心をもっておもむくべきである。
過去の佛の教え、未来の佛の教え、現在の佛の教え、生活規律の平等、心
の平等、誤った見解と疑いと後悔を除く平等、成すべき道と成してはいけ
ない道を知る平等、修行し真実をありのままに知る平等とにおいて、すべ
てのさとりに到る助けとなる教えをよく観察する平等、衆生を教化する清
浄なる心の平等である。

現前(げんぜん)地
 第六地に入るには十の平等の教えを観察すべきである。
 それらは様相がないから平等であり、実体がないから平等であり生ずる
ことがないから平等であり滅することがないから平等であり本来清浄でな
いから平等であり、言葉で説かれないから、取ることがなく捨てることが
ないから平等であり、さとりの世界だから、夢幻や影や響のようだから、
有と無が同じだから平等である。このようにすべての存在自体が清浄であ
ると観じて現前地に入るのである。

遠行(おんぎょう)地
 第七地に入るには十の方便の智慧を実践すべきである。
 すなわち、すべての固体存在と存在要素は空と観想し、空であるから、
差別がないと観想し、様相が無いのだから何も願いを求むべきものはない
と観ずる瞑想などを実践する。

不動(ふどう)地
 一切の意識を離れて、すべての存在は虚空であると観(かん)じて第八
地を成就(じょうじゅ)する。この菩薩には菩薩の心、佛の心、さとりの
心、大いなる安らぎの心すら起こらないから、まして世間の心など起こる
はずがないのである。

善慧(ぜんね)地
 佛のみ子である菩薩が、超自然的能力をもち、佛のみに特有の威力を実
践し、諸佛にしたがって大悲の本願をつらぬけば第九地に入ることができ
る。

法雲(ほううん)地
 佛のみ子は無量の智慧をもって、初地よりよく思惟し、実践し観察し、
真理をさとる数かぎりない道の教えを集める。そして大いなる善行と功徳
と智慧を増して広く大悲の行為をなし、如来の成したまうところに入って
如来の安らぎを体得する。
 よく衆生と声聞と縁覚とすべての菩薩に修行を実践させ、布施、愛語、
利行、同事の行為において、つねに佛、法、僧を念ずることから離れない。

前稿/其の十(97/05)次稿/其の十二(97/07)


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