如 是 我 聞 (にょぜがもん=是の如く我聞けり)

              文責 能島慶華 −観自在97.11月号(1)

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    良縁と好機会とは、時の来るのを待つ
        あせるのも、いらいらも止めた方が良い
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 原因をたすけて結果を生じさせる作用を「縁(えん)」と言います。
直接的原因(因(いん)) に対して、間接的条件を意味します。また、
因と同じ意味にも用います。

”「縁」無き衆生は、度(ど)し難(がた)し”とは、いかに御佛(みほ
とけ)様でも佛縁のないものは救済しにくいように、人の言うことを
聞きいれないものは救いようがないという意味です。

 法主(ほっす)さんは御佛様のお手伝いをされる立場にあります。
積極的に自ら行動を起こすのではなくて、「ご縁」を大切にされる、
受動的にという意味でもありません。「あぁ難しいお話」です。


   無理を通せば道理が引っ込む
        「縁」が熟するのを待つ姿勢

どのような目的で話して下さったのか、それとなく日常会話の中
で話をして下さり、それを文章にすることは困難なことです。
 皆さんのお好きなように都合良く解釈して下さることを前提にし
ないと、口述を受けて文章にする私(能島)がまとめきれません。

法主さまの待つ姿勢、待てる時間は、もしかすると人間の寿命に
関係が無いくらい、長い時間かも知れないと感ずることがあります。
 意見の異なる人がある時は、説得するよりは、その人が死なれる
まで、あるいは、ご自分が死んで、意見が一つになることを望んで
おられるのではないかと思えるくらい、時間の経過というか、浪費
というか、そのようなことを平然となされるように感じることが、
しばしばあります。
 ご自分の願っていることを相手がしてくれるまで、あるいはご自
分が妥協されるか、意見のすり合わせをするために、決して急がれ
ることがありません。
 周囲は、ああも思い、こうも思うのですが、なかなか行動に移さ
れません。いらいらして来ますが、「老害の内だ」と言われてます。

 急ぐな、無理をするな、その内何とかなるだろう、と言われます
が、さりとて無責任でもありません。頑固(がんこ)かと言えば、そ
うでもありません。我関せずと言わんばかりの態度で、超然として
おられます。
 忘れておられるのかと思っていたら、ちゃんと覚えておられたり、
覚えておられると思ったら、忘れておられたり、成り行きと言うか、
その時次第と言うか、さっぱり理解出来ないことが日常です。
 時が止まっているのです。法主さんの時間の観念は、まるで「鈴
の世界」で、別の時間があるように思われてなりません。

 旅に出られるとしても、国内ならば、乗物に乗られないで、歩い
て行きかねられないような傾向があって、「日暮れて道遠し」と言
うような考えをもっておられないかもしれません。

 そのように急いで、何処に行くのと言われているような感じです。
 これは聞いた話ですが、阿多田に船で行かれるのに片方のエンジ
ンが調子が悪くて、何時もなら30ノットの速度が出るのに9ノッ
トしかスピードが出なかったそうです。30分で行けるところが1
時間半掛かる、ところが法主さんは、とてもご機嫌が良くて、船は
このような速度が快適だと言われていたそうです。
 故障と言っても、別にエンジンの回転が上がらないだけで、差し
支え無い。当分の間このままで使おうかと言っておられたそうです。

 それが、先方から一分でも早く来て欲しいと言われる時は、時速
40ノットを超える船を運転されるのですから、どのように受け止
めて良いものか理解出来ません。

 法主さんはお年に似合わず機敏な方です。それが時と場合によっ
ては、どさっと座ったままで、びくとも動かれない、どれに調子を
合わせれば良いのでしょうか。
 法主さんが行動されるのは、何だかご自分の意思では無くて、誰
かの、もしかすると御佛様でも命じられるように動かれているとし
か言いようのない行動です。
 人に会われるのも、気分次第、その時の都合次第、体力次第、い
くら多忙でも拒否されません。さりとて、お暇のように見えても、
今日は休養しますと閉じこもられます。日時の予約は余程苦手のよ
うで、約束はされません。
 ですから、法主さんに会われたい方は、予約の必要はありません
し、さりとて、絶対に時間を取って差し上げるとは約束出来ません。
 気が向けば、本堂に出て来て話をされます、体力次第なのでしょ
うか、今日は御免、と言われて出られないことも多くあります。

 機嫌を取ることなど絶対にされません。特別に気を使うこともな
されないようです。平等です。

 「ご縁があれば」と言っておられます。さりとて、実際に会われ
た人は口を揃えて「良い人に会えた、大切にもてなしてもらった」
と言われます。
 法主さんには、もてなすと言う発想は皆無です。極めて自然に、
ご自分のなさりたいようにされていて、それでいて多くの人に慕わ
れる、世間からは人徳と言うものだろうと言われています。
 このことについてお話を伺ってみましたら「私に人徳なんかある
筈も無い」と言下に否定されます。

 縁が無いといえば、本やテレビなどもそうです。
 ご縁があれば見る、見れなかった情報は縁の無い情報、大量の本
や大量のビデオテープなどは最初から見向きもされません。
 読まなくてはならない、見なくてはならない、そのようなことは
「真っ平御免」と言われておられます。

 ですが怠惰ではありません。電話は観音院では誰よりも丁寧で情
のこもった受け答えをされます。
 丁寧に説明もされます。話を途中で打ち切られることも先ずあり
ません。ですが、面倒なことや厄介なことは、見事なくらいに避け
て通られます。
 何かを強要されると、徹底して避けられる性癖をもっておられて
縛られることは厭なのでしょう。

 毎月、第一日曜の朝の法要の法話は、することにされています。
 法主さんの話は面白いとか、元気が出るとか、ほっとするとか、
いろいろな評価があります。
 私は知っています。法主さんは何かの話をしようと考えて、準備
しておられることはありません。
 その時その時に、思いつかれたことを、入れ物から入れ物に水を
移すように話されているだけです。


   目標を明確にして一歩ずつ確実に近づく
       ところで法主さんの目標はどうなのか

これが言われることと、法主さんの言行は完全に不一致です。
 何かをしようとか、あれが欲しいとか、そのようなことは一切あ
りません。
 現在の環境に、とても感謝しておられ「有り難い」と受け止めて
おられて、注文はありません。
 法主さんが求めておられる、と言うか、喜ばれることは「微笑み」
だけです。
 ご機嫌取りはなさいませんが、皆さんの反応には極めて敏感で、
微笑みが多いと喜んでおられます。

 法主さんは飽(あ)きっぽい方です、何かをされていても、いつの
間にか次のことをされています。
 注意深く観察していると、相当熱中されて、殆ど玄人レベルにま
で達しておられ、もう極めたという点で次のものを探しておられる
わけで、飽きたわけではなくて極めたというところ、済んだという
ことで、飽きたのではないのです。

 学生のころに、しゃかしゃかと教科書を済ませて、あとは欠席と
いうこともあったそうです。
 当然に出席日数は足りない、学生としては不適切です。社会人と
しても、一つ仕事は長くて二年しか続かない、興味がないことはさ
れない、社会人としても不適切な方です。いくら手が切れても年功
序列社会ですから、面倒が見切れない人です。

 観音院の場合もそうでしたね。あれよあれよと言う間に寺を立派
にされて、52歳で引退です。
 しかし、これは20年は続きました。厭なことは出来ない、好き
なことには熱中される。無理なことはされません。

 「ご縁があれば」と言われますが、いろいろな方と、いろいろな
仕事と沢山のご縁をもたれました。
 一貫していることは、丁寧で親切で思いやりの深い方です。気配
りも凄い方です。
 恐らくは日本一と言うものを観音院はいろいろともっています。
 職員も相当影響を受けているのは当然です。観音院に勤めれば手
に仕事が付くと言われます。


   最低限のことをしていれば
         好きなことがさせてもらえる

観音院はそのような職場です。自分で何かを見つけて熱中するこ
とが求められます。勉強の機会は幾らでも与えられる環境です。
 好きなものが無いと少し気の毒なことになります。あれをしろ、
こうしなさいという場所ではありませんから、することが何も無く
なる。いる場所が無くなります。

 印刷のこと、写真を撮ること、編集をすること、パソコンを習う
ことや、インターネットでホームページをメンテナンスすること、
音楽教室を開くこと、ケーキ教室をすること、俳句教室をすること、
建物を補修すること、何でも自分からすることが大切にされます。
帳簿を付けることも習えます。物品を管理することも教えてもらえ
ます。人間関係を熟成(じゅくせい)させることも習えます。探せば
いろいろなことがあると思います。最後にとても大切なことですが、
礼儀作法も習えます。

 これには前提条件があります。勤勉とか、人を大切にするとか、
お年寄りを敬うとか、子供を可愛がるとか、物を大切にするとか、
物事をするにはメモを取りながらするとか、不平不満を言わないこ
となどが極めて大切です。

 個性とかオリジナルなものがとても大切にされます。真似事から
初めて、やがて真似を超えて、自分の特技とすることが大切です。
 若い人もお年寄りも、年齢を問わず、観音院に出入りすれば楽し
いことが沢山用意してあります。是非ともご利用下さい。

法主さんは正確かどうか判断の別れるところですが、他力本願と
言いますか、阿弥陀仏の本願。また、衆生がそれに頼って、成佛を
願われるような一面があります。他力本願は、もっぱら他人の力を
あてにすることではありません。
 反面、聖道門の僧侶として自力によって現世において証果を得よ
うとするようなところもあって理解が難しい方です。
 「ご縁があれば」と「どなたもご縁がある」がどうも同一のよう
に解釈しておられる様子があります。難しいですね。

 法主さんに聞きますと「難しいことは分からない」と素っ気ない
返事が返って来ます。
 素っ気ないと言うより、もう、そのようなことは超えておられる
のだと思います。
 とても古典的なところと先端的なところがあるように見えますが、
それとも違います。
 生かされてある。御佛様の心のままに、とでも申しましょうか、
大きな力に全て任せきって、頼りきっておられる。そのようなこと
を強く感じます。ありのままの姿で、流れる水に身を任せながら、
それでいて、主体性を失われることは無いように見えます。いえ、
主体性なんて、もしかすると無かったりして、「まぼろしの鈴之僧
正」と言われる通りでしょう。

 何を求めておられるか、それが分かりません。釣る餌が有りませ
ん。取り分けて親切なと思える話も、お断りになることが少なくあ
りません。ですが、とても親切な方なのです。さりとて、積極的に
親切になされるようでもありません。
 ですから、皆さんにとっては使い得、使わなければ損、そのよう
に申し上げると、これまた、法主さんにも皆さんにも失礼な言い方
になるかもしれません。

 僧侶たるもの、如来さまの手足であることを自覚して行動しなく
てはならない。そして高い佛教道徳、倫理観と言えましょうか、そ
のようなものをもっておられて、深く突っ込むと、そのように求め
られます。

掴みどころの無いお方で、深く詮索されることを好まれません。
 16年も観音院に居て法主さんが理解出来ない、「放って置いて
くれよな」と望まれます。
 どのように法主さんを利用されても、では何とかしてくれと代償
は望まれません。
 飲みに行こう、食事に行こうと誘えば、おごられることは珍しく
ありません。さりとて、限度はあるようです。
 そこらあたりが皆さんの良識に期待したいところで、図に乗ると
「縁が無い」とプッツンされます。

 大変な情報と分析力、知識や判断力をもっておられますが、新聞
やテレビを見られないような一面もあって、普通の人がもっておら
れる常識を欠如されている場合も有りますのでご注意下さい。


                

                

法主さんの原点は祈りではないかと思います。知識とか経典に
 ついての理解などとは違った意味で「世間の全ての人に愛を及ぼ
 し、光となるよう」存在しておられるように思います。
「愛とか光」は感じることは出来ても、実感として手で捕まえるこ
 とは難しいですね。深追いは無駄だなことと思います。

「棚からぼた餅」と言う諺があります。誰かが、何かの目的で、
 ぼた餅と決めて、用意していたか、余ったのか、棚の上に置き、
 置き方が悪かったのか、棚が傾いていたのか、落ちて来たぼた
 餅の下にいるとは、これはご縁です。

飾らない、仕組まない、感情を制御されない、好きなことを好き
 なようにされていて、それでいて決して腹を立てられない、立て
 る腹が無ければ押さえる必要も無いそうで、自然で、ありのまま
 で法主さんは過ごされます。

引き波で他の船に迷惑を掛けるような運転は好まれません。最大
 馬力を出して運転することを好まれません。穏やかに、静かに、
 目立たないように、人生を過ごされることを望んでおられます。
「ゆとり」を大切にされますが、生命保険や定期預金のキャッチ
 フレーズとは違うのだそうです。難しいです。

物凄く古臭いようで、とても新鮮で、難しそうで、気楽。法主
 さんや観音院は水のように器に従います。それでいて、本質を
 見失わないように、肝心なことには妥協されない。無理なこと
 や努力は長続きしない。出来ることをコツコツとされることが
 お好みで、安全第一、安心第一のように思われます。

人として守るべき道、家族や市民社会や国家などの秩序を守る。
 君臣・父子・夫婦など、上下・長幼などの秩序を守って、その
 上に十善戒を守るよう努力すれば、その他は適当にやれば良い
 と、五十年間が一緒なんでしょう。

法主さんは考え方を整理しておられません。雑多に詰め込んで、
 都合の良い部分を繋ぎ合わせて倫理観を構成されているのだそ
 うです。いわば法主さん流の倫理観で、借り物ではなくて習性
 化された行動の倫理観だそうです。

法主さんの倫理観は相手に合わされて上下されるようなところ
 があり、基準が明確ではありません。高く求めれば際限が無く
 高くなり、低くすればそれも良し、人それぞれに考え方や事情
 があることと寛容です。
 先ずは自分がどうあるかが大切で、世間に対して、あれこれと
 求めておられないようです。

前稿/10月号(2)次稿/11月号(2)


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