如 是 我 聞 (にょぜがもん=是の如く我聞けり)
              文責 能島慶華 −観自在97.10月号(2)

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  人間って、あまり地位などに固執しない方が・・・
       早く引退して、気軽にさせてもらった!
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 法主(ほっす)さんは、私どもの付けた呼称です。ご本人はご隠 居で結構だと言われます。実は住職を引退されて、初めての葬儀の 導師(どうし)をされた際に葬儀を司会される方が、突然に思いつ かれた呼称とか。で、法主さんが、法の主など大きな呼称は好きで ないと言われるのですが、、、すっかり定着しました。  法主さんご自身は、院家(いんげ)さんも間違い、先生と言われ るほどの玉では無い、と言われるのですが、仕方が無いので、今ま で通りに、法主さんと言わせていただくことにしますが、深い意味 は毛頭ありません。念のため。 鈴の鈴     優しい人柄が魅きつける          その人柄が説明出来ない  写真:鈴之僧正のいわれとなった「鈴」    −僧侶としての戒律を保つために、 「鈴」を身に付けておられます− ■「法主(ほっす)さん」と言うのは止められないかと言われるの ですが、この言葉の発生源を調べてみますと、願文の最後に「護持 法主」とあり、住職さんであれ、誰であれ、法要を執行する際には 全て法主の立場でなさっているのです。ですから間違いではありま せん。  手紙の末尾には「鈴之僧正(すずのそうじょう)」とか「鈴」と 署名されています。  世間には、「鈴さん」とか「すぅさん」で通用しているようです。  この鈴は、本来は「猫の首に付ける鈴」と、同じ役割を果たして いました。  人間は、何時も緊張しておれません。時には休憩もとりますし、 無駄話もします。観音院は家庭的な場所ですから、参詣された方が 寛いで横になられる場合もあり、職務も朝は七時ころから深夜二時 なんてこともあります。  でも、法主さんには、緊張を解いた時の態度は見られたくない、 何方かが、腰に鈴を付けて欲しいとお願いされたわけです。  このようなことを願った方も大変な方ですが、それを素直に受け 入れられて腰に鈴を付けられとは並の神経ではありませんね。  法主さんは鈴を腰に付けるようになって、皆の行動が改まった。 これは良いことだ、と言われてます。  そのような次第で、皆さんがいつの間にか「鈴之僧正」と言われ るようになったのです。  法主さんは透明な人です。内緒事が一切ありません。寺の経理や 運営を公開されて今年で丁度20年になります。  行動も公開されていて、私たち常勤監事3名が完全に行動を把握 しています。一人でお忍びで行動されることは絶対にありません。  法主さんも住職さんも、頭を毎日剃られています。冬には寒く、 夏は暑いそうですが、最近は、顔と同じで、気温は顔と同じ程度に しか感じられないそうです。皆さんから頂かれた帽子をもっておら れますが、最近は被られなくなりました。  一見して僧侶と分かる姿で、出入りしてはならない所には出入り されません。誤魔化し無しです。 相当に窮屈で、戒厳令下に暮ら されているような日常です。  ところで、法主さんは相当にきれい好きな方です。周囲に不要な 物は置かれたくない方です。  人間としての基本的生活費(ランニングコスト)を大きくしたく ないと望まれます。自分の物は持たれない主義で、法主さんの財布 の中身から一切合切が何でも透明で開放性を維持されています。  観音院は、宗教法人としての目的をもっていますが、法主さんの 行動は、宗教目的を離れた行動はされないようにしておられます。  法主さんは寺と表裏一体で分けて考えることは不可能です。これ は大変なことを実行されていると僧職者から評価されています。  ご自分のことを「洟垂れくそ爺」と自称されることもあります。 もちろん謙遜です。謙遜と言うよりご自分の存在を否定されている ような感じがしてなりません。  この世に生まれて来て、せめて世間に些細なりとも迷惑を掛けた くない、観音院にも、皆さんにも迷惑を掛けたく無い、誤って僧侶 になり、誤って観音院の住職になり、住職を譲ってからは誤って法 主と言われている。  自己嫌悪なら手掛かりがあります、私たちも自己嫌悪に陥ること はありますから、推察もできますが、それとは全く異なります。  瞑想(めいそう)と祈り、信仰を深めることによって慈悲の心を 高め、それを皆さんに還元したいと心底から願われ指導されます。  さりとて、大規模に布教するとか、観音院を大きくするとか、参 詣される方を増やすとか、そのような傾向の発想は叱られます。  今、ご縁があった方に最大限に親切にする、お一人の方に親切に 出来れば、それで役割が済むと思われるな使命感をお持ちです。  多くの方々と法主さん、と言う関係ではありません。法主さんと あなたの二人の人間関係で法主さんは生きておられるようです。  そこから、法主さんの時間とか体力とか、行動範囲に法主さんが 願われるように出来ない、ならないという物理的な矛盾・葛藤を生 じておられるようです。  仕方なく、あるいは自然に、その時その時の出会いを大切にされ るように流れに身を任されるような日常になって来まして。  その時の「人」は、法主さんにとって唯一無二の人でありますか ら、最大限に尊重されていて、その「人」の年齢・性別・国籍・地 位・資産など、どのような角度から見ても差別されるようなことは ありません。  さりとて、このような法主さんの考え方や行動は、観音院の職員 や常勤監事、役員にとっては、ある意味では危険なことです。  人一人のためにご自分の生命や寺全体を賭けかねられない、過激 で大胆な発想をお持ちです。  もし、縁があった人が望まれれば、欲しい物は何でも差し上げる と言われかねません。誰かが法主になりたいと望まれれば、簡単に 同意されかねません。  極めて所有欲の無い方ですから法人の一員としては向いておられ ません。仮にも宗教法人ですから適切に管理運営する役務が私ども や住職や役員にはあります。  観音院が皆さんのお寺であり、僧侶の住処(すみか)でも無く、 職員の職場でも無いことは皆さまも理解して下さい。  その観音院の全機能を上げて、一人の「縁」があった方に対応さ れようと希望されています。  そのような訳で、どこら当たりで調和を取るかが、とても困難な 毎日と言えることができましょう。     世間様に役立たない寺は無用の長物           慈悲が示せない寺なら存在するな  これから将来に向けて、観音院をどのような寺にして行くのか、 法主さんは、寺は歴史が古いから尊い、立派な佛像があるから有り 難いと言うようなものでは無いと言われます。  歴史の古い寺なら、中国河南省の白馬寺が天竺から初めて佛教が 伝えられたのだから、一番尊いだろう。立派な佛像ならアメリカの ボストン美術館(岡倉天心の庭で著名)に参拝すれば良い。  金襴の法衣が有り難いなら京都の法衣屋を沢山知っている。  佛教書なら京都の法蔵館か大蔵出版か大学の図書館などに幾らで も蔵書されているだろう。  観音院は名刹であってはならない。美術館であってはならない。 図書館であってはならない。  立派な電算機などが設置してあるが、寺の基本とは何の関係も無 いことだと言われてます。  寺は世間様に慈悲を施し、高い倫理観を掲げ、世のため人のため に奉仕し、そして構成する僧侶の慈悲心を磨くためにあるべきで、 かりそめにも世間様に迷惑が掛かるようなことがあれば、絶対に存 在してはならないと言われます。  寺とはいえ、人間関係の中にあります。多少のどろどろした処が あると思います。それについては「ああ良いよ、泥池の中に美しい 蓮の花も咲く」と、酷しいような寛容なような、判断が出来かねる ことを言われます。  迷える人々が集まって、迷える世の中が出来ている。迷いを嫌悪 するなんて、それは出来ない。煩悩は菩提の種だからと・・・・  だから、相当な無理を言っても大丈夫ですし、それでプッツンさ れることはありません。  ですが、法主さんの周囲の人間は、凡夫もいいところですから、 時にはプッツンしそうになります。  修行が足りないのです、、、法主さんが遠くなるような感じです。 観音院の専従職員は、そもそもが、社会的に挫折して、観音院に来 て、通い詰めて、極端なことを言えば、居すわって、置いてもらっ ているような側面があります。  当然に世間さまから、箸の上げ下げま、で批判が寄せられます。 世間の期待は、寺の職員だからと言う思い込みの期待があります。  一生懸命に努力はしていますが、素晴らしく献身的になったり、 時には煩悩の燃え盛るような気持ちになったりして、だからこそ 寺に居させてもらっている訳です。  彼岸と此岸(しがん)とを激しく往来して揺れる心の中で御佛様 にお縋(すが)りしているような次第です。  その揺れる狭間で、極めて高い公序良俗を求められて、日々を過 ごしているのが実際です。  精進するのは当然のことです。高い倫理観を求められるのも当然 で納得しています。専従職員の考え方や行動も同一で無く、世間か ら転がり込んだ状態の者もいれば、相当に酷しい法主さんの求めに 応じて、まあまあの水準に達しかけているもの、まさに十人十色の 人間模様が存在します。  ともすれば愚痴蒙昧(ぐちもうまい)の中にあって、あらぬこと を口走り、法主さんを傷つけます。  突き詰めて考えれば、寺に居させてもらうことを「有り難い」こ とと心から感謝しています。  難しく考えないで、どうすれば皆さんに喜んでもらえるか、身近 なことから考えて行動すると良いと法主さんから言われてます。  最近、観音院は、多くのマスコミに紹介されていますが、職員は 凍りつくような思いで緊張しているのが有りのままの姿です。  ありのままで、自然に存在しながら、無理をしないで、多くを求 めないで、心から満足して、誠実に御佛様と皆さまにお仕えして、 これらの課題を消化するのは大変に困難なことです。  誤解があると困りますので釈明させて頂きます。観音院は先月号 で、法主さんが指摘されたように腐敗堕落しないよう細かい点まで 注意して運営されています。  私(能島)、田川、春木の三名は信徒の立場から観音院の職員と して専従したものです。監事と言う職責にあり、どちらかと言えば 観音院の運営が適切になされるように、財産の状態、役員や職員の 業務執行を監査する機関を構成しています。与えられている権限は 代表役員と同等または、それ以上であり、違法、不正、脱税などが あればそれを監査し、単独で役員会を招集する権限を有し、観音院 の鍵の全てを管理し、金庫の番号を知り、監事会の知りえないこと は有りえない透明性を確保しています。万一にも理解出来ないこと については、この「観自在」の紙上に発表し、問題を提起する権限 と義務をもっています。  全てについて法主さんが、私どもの立ち会い無くして単独で行動 されることは皆無で、独断で契約や推薦、保証や貸付など、不公正 なことは絶対になされません。  職員に関しても同様であり、宗教法人としては極めて厳格な内部 浄化機能を有していることは保証出来ます。  法主さんは儀式行事の中心であり、運営には一切関与されていま せん。住職さんも慎重であり、役員会で決議された範囲外の業務の 執行は絶対にされず、また出来ない組織になっています。  帳簿については公認会計士の友田先生に面倒を見て貰っています。 法律的なことでは我妻弁護士が筆頭責任役員であり、外部に坂本弁 護士を顧問として、相談しながら運営しています。  法主さんは不正な金銭の支出などがあると指摘されているのでは 毛頭ありません。万一そのような事態があるとすれば幹事会の重大 な落ち度であり責任となります。  法律に違反しないように、法に触れないように、公序良俗に基づ いて運営することは容易です。  法主さんは高い次元から倫理観の高揚を願って、極めて宗教的な 立場から、精神的な内部にまで検索されて、怠惰な気持ちや、所謂 世間的な名誉や声望、極端に言えば繁栄も禁じる立場におられます ので、理解することが大変に困難なことになります。  積極的な布教、閉鎖的な組織、信徒の拡大など、膨張傾向にある ことは全部反対されます。  自然に、無理なく、御佛様の心のままにあることを強く願われて いて、人為的な工夫や才覚を排除したいと言われます。  ご意向では組織を維持することが非常に難しく、皆さんと相談し ながら今後の課題として取扱いたいと願う次第です。 ※何かをする時に、こうすれば、何かをして下さるだらうと期待  するなら、観音院や寺の職員では無い。  何も欲しがらない、御佛 様の慈悲のあることを証明すること。  それが私どもの究極の目標だ。寺の拡張とか信徒の増大、生活  の充実などは思ってはならな い。親切に徹底し、他のことは  考えないように。 ※欲しいものが何も無いとされる法主さんの立場は、理解できま  すが、徹底して綺麗事を望まれていますので、意に沿うことが  難しく、何を望んでおられるか、常識が通用しないので、ほと  ほと困っていると説明させて頂きます。 ※法主さんは、全体とか将来とか組織には馴染まない僧侶です。  あまりに純粋な発想で、その時、その縁によって受け止められ  ます。個と瞬間を非常に大切にされます。慈悲とか救済活動は  本来はそのようなものかも知れません。 ※適切ではありませんが、法主さんは「身を捨ててこそ浮かぶ瀬も  あれ」と 言った捨身誓願的要素を強くもっておられます。  ですが、もしかすると「浮かぶ瀬」を、全く期待されていないと  思われるような事が多く、反面、魅かれるところです。 ※法主さんは、小知恵や小細工、才覚などは嫌悪(けんお)されて  いて、慎重に良く考えることを求められ、常識的な迎合的言動が  通用しない方です。ですが、観音院は皆さんの所有に関わる組織  ですから、ご相談しながら運営するしかありません。 ※法主さんの観音院の存在理由は「全ての人に愛を、光と祈りを−」  の示すことの一語に尽きます、幸いに皆さんの善意で維持されて  いますが、私ども職員も法主さんと同じ趣旨で活動しなければ、  最終的には調和がとれません。  慈悲には期待があってはならないと言われます。

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