如是我聞 其の一

                  文責 能島慶華


出入りする人で寺院を判断しない、
    寺はいろいろな人が自由に出入りする


 観音院の職員が立派であれば嬉しいことだか、なかな
かそうはいかない。人の集まるところは、常にピンとキ
リがいるもので、職員の数が増えると多少のゴタゴタは
ある。だから、観音院も自然に存在しているので、全て
の職員が菩薩のようになったら何処かに嘘がある。

 広島市の範囲で考えれば、良い人も悪い人もいて当た
り前、国内の島々も良い人ばかりではないのも当たり前、
寺も世間の縮図。小さな集団では指導が易しく目が配り
易いだけの結果が親切なお寺と言う理由。



 −小学校で嬉しかった経験がほしい
     職員は使い方次第で、責任は法主−


学歴社会の中で観音院は
     育ちや学歴は問わない方針


 「過去を聞いても仕方がない、明日からをどう生きる
かが大切」と法主さんは言われます。
 さらに付け加えれば、大学を出ていようが、高校中退
であろうが、そのようなことは観音院の専従職員になる
上で全く関係ない。
 人材を求める企業が多いが、「人間は生きていること
が人材。」と法主さんは随分と思い切ったことを明快に
言われます。
 出来れば、小学校くらいで何かのことで褒められた経
験を持っている人が望ましい。
 そのことと同じ設定を観音院で作って、それで巧く出
来れば褒賞すれば、その時から人間の人格の変容が始ま
る。
 たかだか、中学、高校、大学の10年か15年、遊ん
でいようが逃避していようが、劣等感に苛まれていよう
が、大して問題にすべきではない。
 磨く機会がなかった、光る機会が無かっただけのこと
で、少し遅れたからといって人も物も磨けば光るのが当
たり前のことである。
 だから、法主さんは過去のことは学歴も育ちも一切問
われない。
 むしろ、中途半端に光った傲慢さや、世の中を要領良
く渡る習慣を持っている者の方が手が掛かるが、それと
て支障は無い、より良い生き方を教えれば済むことだ。
 「行方不明になっていた自分の子供が、ひょっこり帰
って来たと思えば、帰って来た時に、その子の能力や性
格で、我が子にするか、相手にしないか決められるもの
ではないだろう」と言われた。

 問題は目下研磨中の職員もいることだ。参詣される人
からすれば、寺の職員は人格的に優れているとか優しい
と思われるのは、残念だが錯覚か願望である。
 このようなことを期待されると職員として救えない。
 だから、寺に参詣されて、応対が悪かったり、無愛想
であったり、お行儀が悪かったり、寺の職員として相応
しくなかったら、救われつつある人だと思ってほしい。
 あの職員は態度が悪いから退職させてしまえと厳しい
意見が寄せられることがあるが、それは一般企業のこと
であって、寺には無理なことだ、勘弁してほしい。伏し
てお願い申し上げます。

 観自在の内容も望まれるままに編集できない場合があ
る、観自在には専任の職員はいない。
 発行人も編集人も名義上だけのことであって、実質上
の責任者ではない、意見は大切にしますし、ご提案はい
くらでも受け入れますが、意見がある人は編集や原稿書
きに参加して下さい。観自在は皆さんのものであって、
自分のものを「かれこれ」言っても仕方の無いことで、
参加して自分の望まれる方向で原稿を書かれたり、写真
を載せられたり、編集して下さるなら大歓迎を致します。
 観自在は時には「至らぬ職員に自信を持ってもらうた
めに担当させることがあり」そのような欄を潰せと要望
が寄せられることもありますが、これは救済中の人を追
い出せというのと同じ意味です。
 そのような薄情なことが出来るわけがありません。人
間が自分の能力に疑問を感じている時に、自信回復の機
会を上げることは御佛様の慈悲そのものです。

 −朱に交われば赤くなる
     友人は選ばねばならない−


 人間は周囲に影響されやすく、非行に走ると、しばし
ば友達が悪いから、影響されたと言われます。特に青少
年の場合にこのような場合が多く心配なことです。
 しかし、朱に交わって赤くなった御佛様はおられませ
ん。
 僧侶もまた朱に交わって赤くなることもありましょう。
だから、僧侶も朱に交わらない方が賢明で保身にはその
方が楽ですね。
 困難は覚悟の上で朱に交わっても赤くならず、むしろ
白くして行くことに本来の僧侶の役割があると法主さん
は考えておられます。
 例えば、覚醒剤依存の人と交際して、僧侶も覚醒剤依
存になればミイラ取りがミイラになったようなことで、
絶対にあってはならないことです。
 しかし、覚醒剤依存の人を病院に入院させ、家族の相
談にのってあげ、退院後にもいろいろ相談にのって上げ
ることが出来れば、これは救済と言えましょう。
 泥棒と人間関係をもって、物を盗むことを止めさせ、
正業に就かすことが出来れば、本人にも世の中の役にも
立ちます。
 極端な例を上げましたが、しばしば「あの人は悪い人
だから交際しないように」とご忠告いただくことがあり
ます。
 朱に交わって赤くなるようでは僧侶とは言えません。
清めることが出来なくてはなりません。
 そのようなことは、なかなか出来ないのも事実ですし、
受け入れることによって損失が発生することも、信用が
落ちることも、変な目で見られることも勿論あります。
 法主さんは「必要な時は、私を親戚であると言って良
い」と言われます。法主さんには少しは信用もあります
から、それを利用して縁談でも纏まるものなら、叔父さ
んになるくらい良いではないかと深く考えてはおられま
せん。
 そして、実際にそのような問い合わせもあります。
「詐欺にでも利用されない限りマア良かろう」と泰然自
若とされています。

 警察に捕まった泥棒が「夜中に観音院にも入って何か
を盗んだ」と自白して、警察から連絡があったことがあ
ります。
 「被害届けは出しません。今度来る時は昼に来るよう
伝えて下さい」と法主さんは言われました。「何故か」
と聞く警察官に「佛縁ですよ」と答えられ、「ぶつえん
?」と聞き返された警察官に、「御佛様のご縁です」と
の会話。
 法主さんは「だから人間は信用出来る」と言っておら
れるのですから、普通の人とは少し考え方や感覚が違い
ます。
 賽銭泥棒が新聞等で報道されることがありますが、こ
れも「佛縁」と法主さんは言われます。
 本当にお金に困った人が神社仏閣の賽銭を一寸いただ
く、これも御佛様の慈悲の内で、世の中にはこのような
仕組みがあっても良いのではないか、賽銭箱に鍵を掛け
てはいません。壊される方が修理の費用が高くつくので
す。
 大人になって、昔に賽銭をいただいたと告白し、現在
は立派な信徒になっている方もあるのです。

   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−

−職員は大変な佛縁があって寺に来たのだろう  
  法主さんにとっては御佛様の子のように思える−

   −−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 たくさんの職場があるのに、他人様の目が多く、酔っ
ぱらって街を歩くことも出来ず、サラ金で借りることも
出来ない。公職に立候補すれば失職する、寺の運営に参
加しなければならない、残業手当ても休日出勤手当ても
無い、さりとて手当てが多い訳でもないし、経営者とも
労働者ともつかない曖昧な立場、このような観音院の職
員になるのは、余程奇特な人か、変わり者と言われても
仕方がありません。
 体裁良く言えば、公序良俗には絶対に反することがで
きない。真面目に御佛様に奉仕し、参詣する人に親切に
しなければならない。
 手当てや給与などは問題にしない人で、寺を運営する
ことに住職と同じ考えでやって行く佛縁のあつい人たち
と言えなくもない。

■法主さんは、観音院の職員をもしかしたら、歴代住職
の生まれ変わりかもしれないと考えておられるようです。
 ですから、職員になるまで、信徒として功績が有ろう
が無かろうが、前世で観音院を維持する上でご苦労され
た僧侶かもしれないと潜在意識の下で尊敬の念をもって
接しておられる次第です。
 この世で恩義を感じることが皆無の人でも、前世でお
世話になった方かもしれないと思うのは不思議な感謝の
仕方で、もし、このように皆さまが思われるなら、世の
中から争いが無くなるでしょう。
 この考え方は参詣される全ての人々に当てはめて考え
ておられますので、法主さんを「優しい」と思っておら
れるかもしれませんが、実際には全ての人を歴代住職か、
 ご自分のご先祖さまのように「肉親の情愛」で受け止
めておられるのが真実です。
 「縁」と言うことについては、実はもしかして、賽銭
を盗みに来る人も、通りがかりに寺のトイレを使う人も、
寺の敷地に入った人も全て御佛様の「佛縁」があると思
っておられます。もっと深く言えば、寺の周囲を通る人
の全てが「佛縁」があると思っておられるのです。
 悪い例を少し上げ過ぎましたが、寺に来る人で国会議
員になった人も、会社を大きくして株式を上場した人も、
関連会社まで含めると壱千億円の年間売り上げを達成し
た人もいます。そのような話を聞かれた時の法主さんの
嬉しそうな顔は幸せそのものです。
 これだけ沢山の信徒さんがおられますと、1年に宝く
じの1等に当たられる人も必ずおられます。
 運が悪く交通事故で他人を死なせて加害者となった人、
被害者として亡くなられた方、使い込まれて倒産する人、
使い込んで刑務所の塀の中にいる人、皆さんは全て法主
さんには御佛様の慈悲に包まれた「佛縁」のある方と大
切に受け止めておられます。
 その延長が観音院の専従職員であると思っておられる
のです。

 −限界もある職員としての受け入れ
     多くの人と接する上での注意−


 どんな人でも、依頼されれば寺の職員として受け入れ
て上げたいのですが、制限なく支出を膨らますことはで
きません。従って、定員はせいぜい10名、人数が多くな
り過ぎると適切に面倒を見ることが難しくなります。
 健康は絶対条件です。対応する参詣者の皆さまに病気
をうつすことは許されないことです。加えて清潔な心得
です、観音院の職員は手洗いや掃除を励行することが求
められます。
 祭祀に従事する職場ですから、個人の秘密を漏洩する
と処罰されます。最低限「守秘義務」が理解出来ない人
は面倒見れません。
 物を大切に出来ない人、大切とまでは要求しませんが、
感情の起伏次第で物を壊す性癖のある人も難しい職場で
す。
 救済の意味がありますので、手当ては公務員に及びま
せん。ただし、努力して、人望があれば評議員・責任役
員・教師総代などを経て代表役員住職になることも出来
ます。観音院は世襲制ではありません。従って定年もあ
りません。
 熊谷直実(くまがい・なおざね)と言う武将が鎌倉時
代にいました。
 源頼朝に仕え、平敦盛(たいらのあつもり)を一の谷
の戦いで討った猛将です。後に法然に師事して佛門に入
ります。多分、沢山の人を殺したでしょうし、戦いに負
けたことが御佛様との「佛縁」に繋がり、多分救われた
のでしょう。
 立派な僧侶は、決して弟子の過去を問わぬものです。
 キリストさまにも、お釈迦さまにも、常識では好まし
からざる人物がいました。
 掃除しか出来ない人でも、後世で悟ったと言われてい
る僧侶も伝説上は存在します。
 法主さんは言われます「僧侶に似せて頭を剃り、法衣
を着て寺を汚し、知ると知らざると多くの過ちを犯し、
心から反省懺悔して、残された生涯を過ち少なく、善き
ことをするよう御佛様に誓って寺の軒を借りている」。
この法主さんの懺悔が観音院の原点です。
 「私には悪い点がたくさんある、常に反省し、御佛様
と皆さまに奉仕しなければならない。職員の態度、性格
の善し悪し、過去などについて責めるなら、一番先に責
められるのは私だ」と言われます。
 密厳院発露懺悔之文といわれる有名な懺悔文(さんげ
もん)がありますが、法主さんの懺悔と同じです。
 人間の多くは自分について、とことん反省したり懺悔
する機会がないものです。お彼岸をどうぞご自分をしっ
かりと見つめられる機会にしていただきたいものです。

※職員の不始末は全て法主の責任、不始末をするような
 人間だから職員になれる資格がある。善き人になって
 寺を出て行くのは嬉しいことだし、そのまま寺に居つ
 いて皆さんに奉仕して下されば、とっても有り難い。

※朱に交わって赤くなるようでは一人前の僧侶とは言え
 ない。法主さんは「善人は放置していても良いが、悪
 い人は絶対に放置出来ない、自分のふところに入れて、
 善き人として育てたい」と常に考えておられます。

※全ての人を「ご先祖さまの生まれ変わりか、歴代住職
 の生まれ変わりかもしれない」と言われる法主さんの
 考え方は極めて僧侶らしい発想です。そこには絶対平
 等と御佛様の慈悲の精神が優しく示されています。

※法主さんは交際される相手を選ばれません。たくさん
 の人が出入りされるので、衛生とか、清潔とか、いろ
 いろなことを職員の条件とする必要性を悲しく思って
 おられます。本当は無条件で受け入れたいのです。

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