如是我聞 其の二

                  文責 能島慶華


−渥美清さんの見事な尊厳死と告別感
      寅さんに謹んで哀悼の言葉を送る−


 あの寅さんが逝(い)った。生前は多くの人を楽しま
せ、自らは肺ガンと戦いながら、実生活では、謙虚で、
酒も煙草もやらず、療養中は妻子とは少し距離を置いて、
書籍に囲まれたマンションを借りて1人静かに暮らし、
やがて肺ガンが再発すると入院手術し、家族に見守られ
ながら逝った。
 葬儀は妻と長男と長女の3人だけで行われ、関係者に
も特別には知らされなかった。
 香典供花も清さんの意思で受け取らなかったと言う。
 清さんも立派だが、その意思を守った妻子も立派な人
だと思う。

 最近「尊厳死」ということが再三話題にされるが、尊
厳死は不必要な延命医療を拒否し、医療によって延命措
置を受けない死に方を意味することが多いが、法主(ほ
っす)さんは尊厳死は葬儀の告別式にも及ぶ概念で捉え
ておられ「見習うべきこの世との告別のあり方だ」と感
嘆しておられる。
 「生きることは死ぬことと見つけたり」という武士道
の考え方。
 「生が終わって死が始まるのではない、生が終わって
死もまた終わる」という寺山修司。
 「死ぬということは宇宙とひとつになる」ということ。
永六輔。
 「死ということは新しき生への準備」と法主さん。
 「死ということは一切の終わり」という人たち。
 人は自分の信ずる宗教の救いを信じて逝くしかない。
 死んでしまえばカルシュームと思っている人はそれも
結構。

 死ぬ時の考え方くらいは誰にも干渉されずに死にたい
ものだ。
 文明開化のおかげでずっと上まで、そのまた上まで、
どこまで行けども天国が無いことくらいはだれでも知っ
ている。
 西方へずっと行けば、迷わなければ、地球は丸いから
東から現在地に帰って来る。
 途中に浄土が見つからないことも知っている。
 極楽浄土に昼も夜も無い、女性もいない、浄土では空
腹も苦痛も快楽も不安も無いとか。
 戦国時代なら浄土の平安も求められたが、昨今の人は
浄土の平安より地獄の喧騒の方がお望みらしい。浄土に
は動物は一切いない。
 動物が好きな人は動物の浄土に往生を願わねばならな
い。
 地獄の存在も大地の下が何で出来ているか知られてき
て、この世の下の世界なんか、だれも信じていない。
 死んで宇宙と一緒になると言われる流行の考え方も難
しすぎて理解が出来ぬ人が多い。

 死んだら、願う場所に生まれて来れるという法主さん
の教えには人気がある。
 前世とこの世と来世が繋(つな)がっているから、地
球環境を大切にすることも、愛国心も自然に受け入れら
れる。
 だから観音院で引導(いんどう)してもらって葬儀を
して欲しいと言われる人が増えている。
 この世に生まれ変わったご先祖さまや家族が、目の前
か、どこかに居て、その人が良き巡り合わせがあるよう
に追善供養をしようと言われるのは実際的で、納得すれ
ば、嫌な人でも辛抱出来るし、全ての人を大切にする博
愛の心も持てて平和が期待出来る。
 だから観音院で追善供養をする人が増えている。

◆法主さんの教えは理解するのが易しい、死に行く人も、
また、現世に人間として生まれてこれるならば、今度は
上手にやり直そうと思いながら死ぬことも出来る。
 佛教は本来人間改造の教えではない。怠け者は怠け者
のままで、悪人は悪人のままで救われると説いている。

 法主さんは少し違う、怠け者は少しくらいは努力する
人間になって欲しい、悪人は善人になるよう望んでおら
れる。法主さんの教えには儒教の教えが影響している。
 だから、法主さんの話には道徳的なこと、能率的なこ
と、合理的なことが山ほど含まれている。佛教には本来
含まれていない世間知がわんさか含まれている。お釈迦
様の話にはディジィタルやコンピュータの屁理屈は含ま
れない。

 罰が当たると佛教では説いていない。多くの僧侶はご
先祖さまを粗末にすると罰が当たると説く。
 法主さんは極めて明確にお釈迦様の教え通りに罰は当
たらないから心配するなと言われる。これは法主さんの
方が純佛教的だ。
 本来、佛教は現世利益(りやく)は説いていない。法
主さんは良く参詣し、良く礼拝し、良く説教を聞き、良
く祈る人に幸せがあると、しっかりと説いておられる。
 ただし、良く拝み、良く祈る人に災難が無いなどとは
決して言われない。災難は善人悪人を問わず平等に降り
かかると言われる。幸せは降って来るものでは無い、自
分で努力して掴(つか)み取るものだと言われる。
 その上、運が良い人と交わると運が良くなり、運が悪
い人と交わると運が悪くなると言われる。これはお釈迦
様の教えでは無いが、皆さんが実感的に理解しておられ
ることだ。法主さんも観音院も強運で、良い運を分けて
上げられる。

 宗教は人間の物差しを捨てて悟りの物差しで物事を見
なければなりません。
 例えば、企業のトップは利益を追求するのが仕事、こ
の物差しを捨てると失格経営者です。これは人間の物差
しです。法主さんは良い企業を育て、社会の役に立ち、
従業員の福利を大きくし、株主の配当を高くする心得を
説かれます。
 これは宗教者の物差しとは異なりますが、多くの経営
者に尊敬され、助言を求められています。
 法主さんには、人間としての物差しと御佛様の物差し
と2本持っておられるようです。
 普通、宗教は心の中で姦淫した人は実際に姦淫したの
と同じ、心の中で人を殺せば実際に人を殺したのと同じ
と説きます。
 法主さんはなるべく心の中でも姦淫したり殺人をした
りしないように、しかし表面に出ない人間の心の中の葛
藤は認められます。ただし、実際の姦淫や殺人とは厳格
に分けて考えておられます。
 御佛様の物差しと人間の物差しと、どちらか一本の選
択を迫っておられません。
2本の物差しを持ちながら、なるべく御佛様の物差しで
考えなさいと説かれます。
 法主さんは人間の生き方に楽な方を、死に方に楽な方
を説かれる不思議な存在です。


−法主さんは戦禍と乱世と豊潤を生きて 
      感受性が高く、悲喜こもごもから引退−




 お釈迦様は俗に生老病死を体験して、それから王子の
地位と妻子を残して城を出られたと言う伝説が残ってい
ます(詳しくは知りません)。
 法主さんにも似たような過去があると、昔の信徒さん
から、いろいろと聞きました。
 観音院は、かっては福王寺を有し、借家を数十軒も持
ち、裕福で広島では指折りの寺の長男として生まれられ
ました。
 原爆が落とされて全てが灰塵に帰しました。
8月の16日には現在の場所に帰られていて、その時は
未だあちこちで煙がくすぶっていて、焼け死んだ人がご
ろごろと転がっていたそうです。
 3坪くらいのトタンのバラックに下痢に苦しむ父親と、
大怪我をした母親を看病する小学6年生。
 翌年に軍人だった叔父が復員して来て、借家の跡地を
叩き売りされ、貧困のどん底で中学へ通われたそうです。
 小学6年から中学1年までは呉市で進駐軍相手のギフ
トショップでアルバイトをされたそうです。周囲には売
春婦が沢山いて、相当に悪い環境だったようです。
 2年の時に家を出て広大教授の書生として働きながら
通学され、卒業すると夜間高校に進学、昼は焼け跡整理
のドカチンをされていたそうですから相当に辛い中学高
校時代だったのでしょう。
 過去の話は殆ど話して下さいませんが、この頃に大工
の腕を身につけておられます。
 高校3年末に普通高校に転学、それから大学へ進学さ
れたのですが、このころに喫煙の悪習慣がつかれたそう
です。
 僧侶としてのスタートは、遍路以外は外出せずに国訳
大蔵経を何度も読み返されていたそうです。
 37歳で高野山真言宗の本山布教師、その間に父親で
ある先代住職の遷化(せんげ=亡くなること)、住職就
任と目まぐるしいことで、随分とご苦労されたとのこと
です。
 昭和54年に現在の観音院を復興される大役を勤めら
れました。
 56年に観音院を本山から独立させて、観音院を事実
上の本山にされたそうです。
 ところが、6年後に突然に住職を寛恵僧正に譲って引
退、満52歳の時のことです。
 豊かな家庭に生まれ、戦禍の残酷さを目にし、肉親の
財産分けの争い、重労働の学生時代、沈黙の読書と遍路
の修行期間、実はこの間に8回も四国霊場を本物の乞食
(こつじき)として巡礼されています。
 現在は観音院の法主(ほっす・儀式、行事を主宰)と
いう立場ですが、法律上の権限は何も持っておられませ
ん。
正直に言えば、また巡礼に出られても、乞食(こつじ
き)をされても困りますので、観音院の全職員が付きっ
切りで、目を離さないようにしています。

■10年前に過労で危篤状態で入院されるようなこともあ
りました。 世間一般のご僧侶のように経典を読んで生
老病死(しょうろうびょうし)を勉強されたのではあり
ません。文字通り四苦八苦を体験され、毀誉褒貶(きよ
ほうへん)の意味を体験で知り、その上でご自分の体験
を通して得た考えを話しておられるのですから、酸いも
甘いも、人々の苦しみも悲しみも全てを包容する心を持
っておられます。
 少なくとも釣りを殺生(せっしょう)と言うような小
乗的なことを言われるようなことは絶対にありません。
 十善戒の解釈は多くの高僧を唸らせるものですが、こ
れは7年間の沈黙の時期に書かれたものです。
 不邪淫の戒律について、いろいろと関係を持つことは
悪いことではなくて苦しいことだ。一端関係が出来たら
生涯責任を持って面倒を見て上げなさい。これは善悪の
問題ではなくて、精神的に負担能力があるか、財力の面
で責任が持てるか、思いやりを維持出来るか、相手の立
場で考えられるか、それが出来るなら結構なことだと随
分と大胆なことを言われます。
 心に思えば、邪淫をなしたと同じなどとは決して言わ
れません。
 心に思っても行動に出なければ不邪淫戒律を守ったと
同じこと、実際に行動して始めて不邪淫の戒律を犯した
ことになると明快な返事が帰ってきます。
 身辺の綺麗な人でないと、本当に法主さんの信頼を得
ることは難しいようです。
 しかし、本人が、自分の置かれている立場に悩み、困
り、あるいは過ちを犯しそうになっていると相談した時
点から人間として信頼されるようです。
 生涯に一人しか異性を愛することが出来なかった人は、
極めて幸せで稀な人だ。
 捨てられたり、裏切られたり、辛抱したり、許したり、
許されたり、誤魔化したり誤魔化されたりして人間の生
涯があると言われます。決して裁判官の書かれる判決文
ような割り切れた考えを持たれる方ではありません。
 だから法主さんに相談する人は安心して、閉ざした心
の窓を開いて話すことができるのです。
 法主さんは慎重な方で決して間違いはなさらない方で
す。
 しかし、経験豊かな昔があり、将来に向けて絶対に間
違いが無いとは断言できないと言われる法主さんに、皆
さんは何かの嘘を探しだせますでしょうか。

※法主さんの説かれる死生観は現代に生きる人々の教養
 や理性に受け入れられ易く、多くの人々に支持されて
 います。不安なく死に行くには納得のいく死後の過程、
 転生輪廻があれば、次の世でやり直しが期待出来ます。
※守れない佛教的な戒律を守ったようなフリで生きるよ
 り、法主さんのように守れる戒律、努力目標を明確に
 示してほしいと願う人が多い。法主さんは信じて幸せ
 が実感出来る戒律を示され、多くの若者も信じている。

※法主さんが過去を語られることは極めて珍しい。ここ
 に書いていることの大半は、昔に法主さんと知り合っ
 て、現在は信徒になっておられる方々の証言です。ご
 苦労と失敗と成功などが皆さんの相談に役立っていま
 す。
※ここには少し危ない話が書いてありますが、誤解され
 ないよう慎重に丁寧に読んで下さい。法主さんは佛教
 道徳を説かれますが、理想と現実も確実に把握してお
 られ、それが皆さんが法主さんを信頼される源なので
 す。


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