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十住心論四季の閑話

−弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の六−

                     観自在編集部

第二住心「愚童持斎心」

 次に十善戒(じゅうぜんかい)を明らかにしよう。

十善の慍陀南(うだなん=詩)

殺生と怨(うら)みとを念頭から払拭(ふっしょく)して
人々のために慈しみを生ずれば
ゆたかな人生に恵まれ長寿であり
神神もまた守護する
盗まず満足を知って、人々に施(ほどこ)せば
財産を失わず天上界に生まれる
邪淫を遠ざけて煩悩(ぼんのう)を抑えれば
自分の妻を最上として満足し
他の女性に対して
どうして煩悩(ぼんのう)の心が起きよう
まして自分の妻も奪われない
これはさとりの要諦(ようていorようたい)にして
迷いの世界から免(まぬが)れる

嘘をつかない者は常に真実を語るすべての人々は
皆その人を信頼しその人を中心に親愛の絆ができる
二枚舌をつかって人と人とを仲たがいさせなければ
親しい人、疎遠(そえん)な人をとわず
人間関係は円滑にたもたれ
怨みによって破れることはない
いろいろの悪口かげ口をやめて
おもいやりある言葉を話せば
おのずから表情も柔和になり
聞く相手も安らぎをおぼえる
道理にかなった言葉を心がけて
上辺だけの飾った言葉をやめれば
一身に多くの人の尊敬があつまる
人の所有物を欲しがらず貪らねば
現世に至福(しふく)をえ、後世天に生まれる
怒りを忘却(ぼうきゃく)して、慈しむ心を育てば
すべての人々に愛され慕われる
八つのよこしまな見解を離れて

(邪見、邪思惟、邪語、邪業、
邪命、邪方便、邪念、邪定の八邪見)
正しい道に住する者はすでに
煩悩を断った菩薩の人である
このようによく十善をおこなえば
三乗すなわち声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚乗、菩薩乗へ至る
よい足がかりとなるであろう

「華厳(けごん)経」は説く。
 「十善業道というのは、人間界と天界に生まれるために修(おさ)める
善行の積み重ねであり、それはまた、有頂天(うちょうてん)[欲界、色
界(しきかい)、無色界の三界のうち、色界の最高処である色究竟天(し
きくきょうてん)、または無色界の最高である非想非非想処天のこと]に
うまれる起因ともなる」と。
 佛(ほとけ)の教えに忠実な、三乗(さんじょう)のすぐれた者は、み
な成佛(じょうぶつ)のときにむかって永い修行にはいる。
 それらの人は、菩薩の位をめざして十信、十住、十行、十回向(えこう)
の修行を積み、菩薩位に達した者はその上の聖者の位へのぼるための十地
を修行し、その階梯(かいてい)を一つ一つ昇りつめて、ようやく等覚、
妙覚という佛に到達するのである。 一方、在家は別である。
 佛の教えにしたがって、十の善の佛の戒めをよく守り、その善の性質が
十分に備わっているか、それとも欠落しているか、精神状態がつねに安定
しているか、それとも不安定にいらいらしているかなどによって、人間界
や天界に生まれたり、あるいは三悪道に堕(お)ちる原因となる。

「華厳経」はいう。
「十の善なる行為とは、菩薩の実践行と考えてよい。
 菩薩は本来、殺生することなく怨みをいだかず、つねに他の人を慈しみ、
おもいやる心が泉のようにゆたかである。
 菩薩は本来、盗むことなく、いくら貧しく不自由していても、自分が所
有するものだけで満足することを知り、草の葉でさえも、与えられなけれ
ば、それを無断で取らない。
 菩薩は本来、異性に対して淫らな欲望を起こさない。自分の伴侶に満足
し、他人の妻や他人の夫にいささかの興味も期待もいだかない。まして女
性の肌にふれるようなことがあろうか。
 菩薩は本来、嘘をつかない。つねにほんとうのことを言い、夢のなかで
さえも嘘を言わない。ましてことさらに嘘をつくようなことがあろうか。
 菩薩は本来、二枚舌を使わず、人々を仲たがいさせようといった悪意な
どまったく持たない。この人の言った言葉を曲げてあの人に告げたり、あ
の人のかげ口を誇張してこの人に告げるような、信義にもとることはしな
い。告げ口は両者の感情をいちじるしく傷つけるからである。
 菩薩は本来、悪口を言わない。
 もともと悪口とは、毒のように相手の気持ちを害する言葉であり聞くと
気持ちがとげとげしくなる言葉であり、聞くに耐えない卑しい言葉であり、
怨みのこもった憎悪の言葉である。だから人に話す言葉は、つねに物静か
でやわらかい言葉、思わず笑みを誘うような言葉、相手の心にしみいる言
葉、相手がのぞみ求めている言葉を話すことが大切である。
 菩薩は本来、偽(いつわ)り飾った言葉を口にしない。つねに伝えたい
意味がはっきり分かる言葉、道理にかなった言葉、理路整然として説得力
のある言葉を使用すべきである。
 菩薩は本来、貪りもとめない。
 自分の所有するものに対しても無欲恬淡(てんたん)として、まして他
人の資産などに一切むさぼりの心を起こすことはない。
 菩薩は本来、憎み怒る心を超越しさって、つねに人々に慈愛をもって接
し、人をいたわり、おもいやりの心を大切にする。
 菩薩は本来、よこしまな見解を持たない。正しい道、正しい考え方、正
直をつねに心にとめて、あざむくことも、へつらうことも決してしない。
 もし、良くこのようにおこなうことのできる者は、菩薩の実践行にほか
ならない」と、華厳経は説いている。


佛像を盗まれ 霊験によって盗人(ぬすびと)が捕われる話
                       『日本霊異記』より

 和泉の国日根郡のある村外れに一人の盗人が住んでいた。
 この者は生まれつき邪悪な心の持ち主で、泥棒稼業のほか、悪いことな
ら人殺しさえも辞さないという札つきの悪人であった。
 いつも近在の寺寺に忍びこんで銅製の佛具を盗んできては、これを火で
熔かして鋳(い)つぶし、銅の延べ板にかえて町の辻で売っていた。
 あるとき、日根郡の尽恵寺という寺の銅製の佛像が、何者かに盗まれた。
 一人の役人が、とあるあばら家の裏手の路地を、馬に乗って通っていた
ときである。
 どこからともなく、かすかに訴えるような泣き声が聞こえてきた 耳を
すますと、「痛きかな、痛きかな」と言っている。
 誰かいじめられているのなら助けてやろうと、役人が馬を走らせて声の
するほうへ近づくと、その泣き声はいつの間にか途絶えて、ただ金属をた
たく音がきこえるだけだ。
 先ほどの声はそらみみだったかと、馬をすすめてしばらく行くと、また
後ろから追いすがるように、「痛きかな痛きかな」という声が聞こえてく
る。
 そのまま通り過ぎるわけにもいかず、また元の所に戻ってみると声はや
んで、やはり金属を打つ音がするだけである。
 これはひょっとして人でも殺しているのではないか。いずれにしても、
このあばら家の中で、何か良からぬことが出来しているにちがいないと考
えた役人は、丹念にその付近を調べてまわったが何も見つけることができ
ず、やがて従者を一人そこに残して帰路についた。
 あとに残った従者が、ひそかにそのあばら家に入りこみ、そっと部屋の
中をうかがうと、するとどうだろう。眼前にある光景は、一人の男が、仰
向けにした佛像(ぶつぞう)の手足を切り取り、鏨(たがね)でもって頸
(くび)をかき落としているおぞましい姿であった。
 ただちに捕えられ、うち据えられた盗人に役人が尋問する。
「お前が解体していたあの佛像はどこの寺から盗んできたのか」
「へい、尽恵寺からです」と白状したので、さっそく尽恵寺に使いをやっ
て問い合わせると、たしかに佛さまが消えている。
 そこで使いの者が、かくかくしかじかと事の次第をお寺に報告した。肝
をつぶしたのはお寺である。
 寺僧をはじめ噂を聞いた多くの檀家(だんか)がぞくぞく役所に集まっ
てきて、無残に破壊された佛像をとり囲んで口々にいう。
「なんとまあ、おいたわしいことか。私たちの大事な佛様を、なんのわけ
があって、このようなむごい仕打ちにあわせるのか。尽恵寺では、この佛
様をご本尊と仰いで一生懸命拝んでいるというのに。
これからのち、なにを頼りに拝めばよいのか」と悲嘆にくれた。
 そして皆して、破壊された佛像を乗り物に収めて担(かつ)ぎ、粛粛
(しゅくしゅく)と寺まで運んで、涙ながらに供養した。
 ところでくだんの盗人の処罰のことだが、この者は村人の私刑からは
免れ、捕縛されたまま奈良の都に護送されて、当局の手にゆだねられた
そうな。
 げに知るべきである。佛が悪を告発するため示されたお力を。
 至誠とは恐ろしいもの、尊い佛の魂には、このように底知れない霊験が
ちゃんと備わっているのである。

 昨今も、佛像泥棒のたぐいがまったく居なくなったわけではありません
が、佛具などを狙う現代の泥棒は、佛像佛具に美術品として高い価値があ
るから盗むのであって、奈良時代の泥棒のように、佛像を鋳つぶしたりす
るような勿体ないことは決してしません。
 ところで、今のこの世の中、それも真っ昼間の街のまんなかで、追い剥
(は)ぎが出没する話をご存じですか。
 不思議なことにこの追い剥ぎは、お金がねらいではなくて、ある品物を
取るのが目的なのです。
 十代後半の少年たちが、街を歩いている同じ年頃の若者を脅して履いて
いる運動靴を強奪する事件が頻々として起こっています。
 これだけでは若者たちの事情にうとい人には、何のことやらぴんとこな
いかもしれません。
 騒動の原因は米国製スニーカー「エアマックス」。これは衝撃をやわら
げるため靴底に空気を入れてあるのがその特徴のようです。
 ここ一年、若者向けファッション誌が取り上げ、オリックスのイチロー
ら人気スポーツ選手が着用したことなどで、人気に火がついたようです。
 一万五千円の定価の品物が二倍三倍にはね上がり、それでも店頭に行列
が並んで、即日に売り切れ十万円以上の値で売られている例もあるそうで
す。
 だから学校での人気スニーカーの盗難は日常茶飯のことで、あげく前記
のような運動靴強奪事件にまで発展するしまつなのです。
 半世紀前の戦後の日々、私たち日本人は一様に苦い経験をしてきていま
す。
 あの頃、お風呂屋へ少し増しな下駄や靴を履いて行くのは危険でした。
湯から上がってみると、必ずといっていいほど履物がすり替えられていた
からです。
 そんな苦しく貧しい時代ならともかく、なぜいま、欲しいからといって、
前後の見境もなく、他人のものを盗るのでしょう。
 盗むことなく、他人の所有物を欲しがらず、人々のために慈しみ他者の
心を思いやる気持ちを、若者にかぎらず、いまの日本人はどこかへ置き忘
れてはいないでしょうか。
「自分が所有するものだけで満足することを知り、草の葉でさえも与えら
れなければ、それを無断でとらない」と、経典は私たちに教え示されてい
るのに……。

 愚童持斎心(ぐどうじさいしん)とは、即ち、是れ人趣(じんしゅ)
 善心の萌兆(ほうちょう)、凡夫帰源(きげん)の濫觴(らんよう)
 なり。万劫(ばんこう)の寂種(じゃくしゅ)は春雷に遇(お)うて
 而(しか)して甲(こう)拆(さ)け、一念の善機は時雨(しぐれ)
 に沐(もく)して而して牙(げ)を吐く。歓喜を節食に発(おこ)し、
 檀施(だんせ)を親疎(しんそ)に行(ぎょう)ず。


 本能、欲望のおもむくままに行動する「異生羝羊心(いしょうていよう
しん)」にくらべ、この第二住心は道徳、倫理感に芽生えた段階をいいま
す。
 万劫の寂種云々とは、これまで無明(むみょう)に覆(おお)われてい
た人間本来の佛性(ぶっしょう)が、春になって暖かい雨にあうと種を割
って芽が出るように、地中深く埋没していた人間の佛性がようやく目覚め
かけた時点のことです。
 つまり、自分の行為のなかに善悪の感覚が生まれ、これは良くないこと
だからやめておこうとか、こうすれば人から認められ、相手が喜ぶだろう
から早速実行しようといった人間らしい感情がめばえ良いこと悪いことの
判断がちゃんとつく心のあり方です。
 それはまだ幼児なみに未熟であっても、乏しい食物を割いてでも人に分
けてあげるぐらいの優しい心を自分の内に取り戻したのだから、「愚童持
斎心」であると、お大師さまは名づけられたのです。



前稿/其の五次稿/其の七


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