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十住心論四季の閑話

−弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の七−

                     観自在編集部

第三住心「嬰童無畏心(ようどうむいしん)」


 嬰童(ようどう)とは、まだ嬰児(えいじ)ともいえる幼い子どものこ
と。無畏(むい)とは、煩悩(ぼんのう)の束縛を離れて畏(おそ)れが
ない、という意味です。
 あたかも幼児が母親のふところに抱(いだ)かれたり、子牛が母牛に鼻
先をこすりつけ、まとわりついているときのように、天界に生まれること
を願って、現世で宗教的実践にいそしむ者が、いっときの安らぎを得る心
のあり方を指したものです。

 したがってこの住心(じゅうしん)は、第二住心の「愚童持斎心(ぐど
うじさいしん)」の道徳、倫理の世界よりさらに進んで、宗教的に目覚め
た世界を明らかにしたものといえます。

 そもそも空を飛ぶかまきりは、幼虫のときからあのように宙空(ちゅう
くう)を飛べたわけではない。鯤魚(こんぎょ)は初めから、必ずしも鯤
魚だったわけではない[北冥(ほくめい)に魚(うお)あり、その名を鯤
(こん)という。鯤化(か)して鳳(おおとり)となる]。
 かまきりの幼虫は、泥の中から飛びたってたちまち自由に空に舞い、鯤
は水面を打ってかけあがり風上に羽ばたく。

 雄羊(おひつじ)のような心の持ち主にも、愚(おろか)かな幼児のよ
うな心の持ち主にもまた、この理屈があてはまる。
 雄羊のような心には、生まれついて持っているそのままの性質がむきだ
しで、白紙にひとしい状態であるから、その性質を善のほうに変更させる
素地はいくらでもある。
 また、愚かな幼児のような心でも、心のうちにある浄化作用と、真理を
求める気持ちや向上心によって、いつか苦を厭(いと)い、苦からまぬが
れようという気持ちがつよくなる。
 そうした善への心の傾斜(けいしゃ)が、たまたま、佛教と出会えば、
佛(ほとけ)の戒(いまし)めを守って天界に生まれ、できるだけ善行を
かさね、地獄に堕(お)ちることだけは避けようと努力する。

 雄羊、愚童(ぐどう)の心の段階がそこまで向上すると、これまで自分
を支配していた愚かで下等な心を嫌悪(けんお)する気持ちがわずかに起
こり、現在の自分より、もっと高尚(こうしょう)な精神を希求する願望
が次第につのってくるのである。
 人間が、天をふり仰(あお)いで、加護(かご)をねがい、神をおそれ
憚(はばか)って誠意をつくすのは帰依(きえ)の始まりである。
 佛菩薩の慈悲をねがって、安らぎと楽を祈る。

 影は物体をそのかたちのままになぞり、こだまは声に応えて返ってくる。
 三悪道の世界に堕ちて苦しむのは、前世に犯した行為の報(むく)いで
あり、瞑想(めいそう)して得た精神の安らぎは、これからの人生をすべ
て良い方向へと導いてくれる。
 このように、こうすればこうなるという原因と結果、すなわち因果(い
んが)というものは厳然と存在し、因果の理法を信じないわけにはいかな
い。だから自分の言動は、たとえどんな些細(ささい)なことでもくれぐ
れも注意し、慎まねばならないのである。
 なお、嬰童とは、初心という意味をかねて名づけ、無畏(むい)、畏れ
なきこととは、煩悩の束縛を脱することにちなんで名づけたものである。

 だから「大日経」住心品(じゅうしんぼん)にいう
「また次に秘密主(金剛薩捶−こんごうさった)よ 人々が戒めを守って
天界に生まれるのは、第七の受用種子(しゅし)つまり植物が種子から芽、
苞(ほう)、葉、花、そして果実に成熟して、これを受け用いるように、
人の善心がますます向上した段階においてはじめて達成する。
 このような精神状態において、なお迷いの世界にいるときには、一つ高
い上のほうから、宇宙の深遠(しんえん)な声が聞こえてくるだろう。
 その声の主(ぬし)は世界創造神である自在天であったり、万有(ばん
ゆう)の根源である梵天(ぼんてん)であったりする。
 人々はこのような声に接して、ますます心に喜びを感じ、ねんごろに恭
(うやうや)しく敬(うやま)い、その声に導かれて修行する。秘密主よ。
これを迷いの世界の愚童異生(いしょう)から、畏(おそ)れなき心を一
つのよりどころとした、一段階上位の嬰童心と名づけるのである」

 注釈していう。
「人々が戒めを守って天界に生まれるのは、これを第七の受用(じゅよう)
種子(第一の種子から数えて芽、若芽(わかめ)、葉、花、果、そして受
用種子が第七に当たる)というのは、植物の果実が成熟して、これを食べ
たりいろいろ利用するように、すでに他人に施(ほどこ)すことによって、
数々の利益をこうむった者からすると、身体、言葉、意(こころ)の不善
のはたらきは、ことごとく悩みの種子になる原因とさとって、そういった
悩みの種子はきれいさっぱり捨て去り戒めを守って住(じゅう)すべきで
ある、ということである。
 戒めを守ることによって、現世において、はかりしれないほどの恩恵を
得ることができるし、ときによって思いがけない名声につつまれる場合も
あり、しあわせな人生が送られる。
 だから精神はますます善い方向へ向上して、死後には天界に生まれるこ
とができるのである。たとえていえば蒔(ま)いた種子(たね)から果実
ができて、その果実をおいしく賞味するようなもので、だから受用種子と
いうのである。
 さらに言葉を補(おぎな)うと、一つの種子から数多くの果実が実り、
その一つ一つの果実の中にもまた多くの種子が内包(ないほう)する。
 これらの種子が地上にころがり落ちて、それぞれに成育していく状況を
考えればその数ははかり知れない。いま実際にこの果実を受け用(もち)
いる心が、のちのちの心の種子となることもまたその通りで、それゆえに
受用種子というのである。

 これまで私たちは、食と性欲に支配され、その欲望のおもむくままに行
動して、それを少しも悪いことと感じない「異生羝羊心」から、人間とし
ての道徳、倫理にやや目覚め、自分の精神を少しでも向上浄化させようと
いう「愚童持斎心」までを見てまいりました。
 そして今回の「嬰童無畏心」はそれよりもさらに一段階上に、天人のよ
うなすばらしい生活があることを空想し、その果報(かほう)を得たいと
憧(あこが)れる心のあり方のことです。
 そんな考え方自体がまだ幼稚だから嬰童(ようどう)といい、それでも
そこにわずかながら人間の苦しみを離れて、無畏(むい)を得るという意
味で「嬰童無畏心」と、お大師さまは言われます。

 天界の生活は、いろんな面で束縛され、不自由な人間界にくらべると、
なんの苦労もなく、何一つ恐れはばかることのない精神の安息所のようで
すが、しかしこれも佛教の涅槃(ねはん)の大無畏と比較すれば、きわめ
てあやふやな心の落ち着き場所でしかない。だからこの住心を道教にあて
はめて天道教であるとしているのです。
 昔、中国の仙人たちが霞(かすみ)を食べて仙術を練(ね)り、空を自
在に飛べることを願って修行をしたのも、この住心にほかならないといえ
ます。

 前の第二住心において五戒を守り、善法を修(おさ)めて人間道の課程
を完了した者が、次にさらに人間苦をのがれ、天上界の「楽(らく)」を
希求するようになって十善戒を修め、欲界の天部に生まれることを教えた
のがこの住心です。
 では、欲界とは、何を指(さ)して欲界というのでしょうか。
 欲界は私たちに最もみじかな世界です。すべての生きものは、生きてゆ
くため生まれながらにして食欲や性欲を持っています。そしてできるだけ
安楽に生きようという、さまざまな知恵をはたらかせながら貪欲(どんよ
く)に生(せい)を享受(きょうじゅ)しています。

欲 界

地 獄  [無楽純苦−むらくじゅんく]

餓 鬼 
畜 生  [多苦少楽−たくしょうらく]
修 羅

人 間  [苦楽相半−くらくあいなかば]

天 界 ― 六欲天[四天王−してんのう、叨利−とうり、夜摩、
        都率−とそつ、化楽−けけらく、他化自在−たけじざい]

 ごらんのように、何一つ楽がなく苦しみばかり、つまり無楽純苦の地獄、
多くの苦しみとわずかばかりの楽がある多苦少楽の修羅(しゅら)、畜生、
餓鬼(がき)、苦しみと楽が相半ばする人間、なんの苦もなく楽ばかりと
いう無苦純楽の天、の六道に分かれております。
 そしてこの天がさらに六段階からなっており、一番下にあるの他化自在
天から一番上の四天王までを六欲天と呼びます。

 第三住心は、苦と楽が半々の人間界よりも、楽ばかりの天界に生まれる
ことを願って、十善戒を修行するわけですが、この十善修行にもランクが
あって、上品(じょうぼん)、中品、下品(げぼん)に分かれ、したがっ
てその果報にもそれぞれ格差があります。
 このうち下品の十善を修めた者が人間として最高位にランクされ、品位
の高い十善を修めるほど六欲天中の上層世界に生まれるとされております。
 人間界からふり仰ぐ天界は、大変良いことずくめの結構な境界のようで
すが、けれども天界に昇るため修行して積み重ねた善行の数量を使いはた
せば、安楽はそれでお終(しま)いで、また人間界か、もっと下の悪道に
墜落していかなければならないとされているのです。
 つまり天界で楽をしている間、下界(げかい)で積んだ善行がだんだん
目減(めべ)りしていき、善行を全部食いつぶしたら、また下界に逆戻り
するわけです。

 なお、天には欲界の六天の他に色界(しきかい)に十八天、無色界に四
天と、合計二十八天あり、これを三界(さんがい)といいます。
 色界は、十善を修めて生まれる天界よりはるかに深遠な世界です。
 なお色(しき)とは物質の意味です。また無色界は、物の形質を全く離
れ、ただ精神のみが存在する世界のことです。
 三界はこのように構成されて、欲界の最も下位にある地獄の衆生(しゅ
じょう)から、無色界の最上位をしめる非想非非想処(ひそうひひそうし
ょ)をきわめた修道者に至るまで、すべて生死流転(しょうじるてん)を
免(まぬが)れることのできない凡夫(ぼんぷ)とされています。

 つまり、いくら優れた儒学者や仙人たちが努力したとしても、佛教によ
らない限り到達点はそれが限界で、この三界からぬけだすことはできない。
三界の輪廻(りんね)を出離(しゅっり)するには、どうしても生死解脱
(しょうじげだつ)を目標とする佛教の力によらなければ不可能である、
と説かれているのです。なお、次の第四住心からはいよいよ出世間(しゅ
っせけん)、佛教の初歩の段階にはいります。


節操ある女人(にょにん)が仙草(せんそう)を食べ
             人間の身で空を飛ぶ縁(えにし)
                   −『日本霊異記』より−


 大和(やまと)の国宇陀(うだ)の郡(こおり)漆部(ぬりべ)の里に
一人の女人がいた。
 この女人(にょにん)は、もともとその辺(あた)りに住む豪族の妻で
あったが、彼女の生き方が世間の常識からかけ離れ、あまりにも純粋すぎ
たせいか、いつしか夫に疎(うと)んぜられ、やがて妻の座を追われるこ
とになった。
 女人には七人の子がいたが、女手ひとつで、その子たちを育てるという
悲惨な境遇に陥(おちい)ってしまったのである。
 けれども、彼女は悲しい表情も見せず、自分が正しいと信じたことを固
くまもって健気(けなげ)に生きていた。今は頼みになる人もなく、食べ
ざかりの大勢の子をかかえた毎日の暮らしはきびしく、食事にも事欠(こ
とか)く有様だった。
 子に着せてやる衣服にしても、藤の皮の繊維で着物を織らなければなら
ない。たまには湯浴(ゆあ)みもしてやりたいが、それもままならず、水
で身体を洗ってやって、藤の繊維のごわごわの着物を着せてやる。
 耕(たがや)す田畑もないから、毎日野に出かけ、野草を採(と)って
きて食膳に盛り、子どもたちを呼んできちんと座らせ、にこやかに皆と、
一緒に仲睦(むつ)まじく話しながら食事をする。
 もちろん神佛の大きな恵みと、感謝を言って聞かせることも忘れない。

 女人のおこないのすべてはこのように気高(けだか)く清らかで、その
暮らしぶりは、まるで天から降りてきた人のようでさえあった。
 時代は難波(なにわ)の長柄(ながら)の豊前(とよさき)の宮、孝徳
天皇白雉(はくち)五年(654)のことである。
 その女人の美しく健気な生き方が神仙の心に通じたのか、その奇瑞(き
ずい)があらわれたのである。
 ある日のこと、女人がいつものように野に出かけて野草を摘んでそれを
食べると、にわかに彼女の身体が地上に浮かび、やがて大空に向かって飛
翔していった。
 そこでわかったことがある。
 佛法を修めなくても、彼女のように、心を清く身を持(じ)して、一生
懸命に生きていれば、いつか天が感応(かんのう)するということを。
 無垢精進女問経(むくしょうじんにょもんきょう)も説いている。
「俗家に居住し、心を正しく佛塔地を掃(はら)えば、五つの功徳(くど
く)(佛のさとりに近づく、聖衆の仲間入りする、修行を完成する、法悦
を得る、衆生を導く)を得る」とあるのはこのことを指したものであろう
か。



前稿/其の六次稿/其の八


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