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十住心論四季の閑話

−弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の八−

                     観自在編集部

第四住心「唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)」


 唯蘊無我心とは、存在を構成する要素[ 色(しき)・存在一般である
物質、受・感受作用、想・表象作用、行・意志作用、識・識別作用のこと
で、これを五蘊(ごうん)と呼びます ]のみが実在(唯蘊)であるとし、
個別的存在には実体がない、つまり「無我」とする心のありかたのことで
す。
 前の住心(じゅうしん)で到達した、純粋に精神的な世界である「無色
界(むしきかい)」においても、しょせんは迷いの世界、「三界(さんが
い)」を出るものではありませんでした。

 この住心から、いよいよ佛教の解脱(げだつ)の道にはいり、まず小乗
佛教の修行者の理想である声聞(しょうもん=教えを聞いてさとる者)の
心のありかたを示してまいります。

 そもそも地を這(は)う尺取虫は、身体をいっぱい伸ばしたと思うと、
すぐ身をちじめる。車輪が回って上にあがった次の瞬間、また下へおりる
ように、良いことずくめの天界でも、果報(かほう)が尽きてしまえば、
また下界(げかい)へ墜落(ついらく)しなければならない。
 それは佛教によらない外道(げどう)の教え、人道教(儒教)、天道教
(道教)を修め、世間最高の非想非非想処(ひそうひひそうしょ・有頂天
=うちょうてん)に到達した者であったとしても、いつかは必ず落下する。
結局、三界(さんがい)の生死流転(しょうじるてん)をまぬがれること
のできない宿命なのである。

 佛教以外の修行においても、生死を超越し、不老不死を目的に、あれこ
れ方途を講じているが、かえって輪廻(りんね)の海のなかに没してしま
う。煩悩(ぼんのう)を離れようとしても、煩悩を断ち切る効果的な手段
が見当たらない。
 自分というものの実体は本来が空(くう)、無いという真理をさとらな
くて、どうして、この世の存在じたいが空であることを理解できようか。
だからこそ、いまもって生死の海に流転(るてん)して、永遠のやすらぎ
を得ることができないのである。
 みほとけは、このことを深く愍(あわ)れまれて、解脱への方策を説か
れた。
 自我の実体は、五つの存在要素が仮に和合したものにすぎない、という
教えである。
 五つの要素とは五蘊、つまり色・存在一般、受・感受作用、想・表象作
用、行・意志作用、識・識別作用のことである。
 したがって、この五蘊を細分化すると、自分というものが存在し、その
自我を考える自分が、実体として確かに存在するという考え方は誤りであ
り、幻のごとき妄想にすぎない、と説かれているのである。
 修行僧が具足(ぐそく)すべき二百五十の戒律は、身(しん)、口(く)
の不善を防ぎ、さとりへ向けての実践修行である三十七の道法は、心身に
善を習い実践する。
 こうして、さとりに至るまでの所要時間は、すぐれた素質を有する者で
も三たび、過去世(かこせ)、現在世未来世と生まれ変わることが必要で
あり、素質の劣っているものは六十劫(こう)という無限に近い年月を要
する。この長年月の修行の積み重ねが、小乗佛教で完全にさとりをひらき、
功徳(くどく)のそなわった修行者羅漢(らかん)などの誕生である。

 ただ、羅漢が到達したこのさとりの境界は、厳密にいうと、羅漢は眼、
耳、鼻、舌、身の五官と、意(こころ)の六識(しき)を知るだけであっ
て、未(いま)だ大乗の七識を知らない。
 声聞(しょうもん)では、世界のありかたを物質的な色法と、心のはた
らきによる心法など五種類に分類してとらえ、それらを観察するのに四つ
の真理と四つの洞察(どうさつ)、四諦(したい)四念(しねん)をもっ
てする。そして六つの超自然的な力や、八種の瞑想力でもって八解脱を得
る。
 生死(しょうじ)の輪廻(りんね)にさまようことを怖れ厭(いと)っ
て、心身を空にし、静けさを求め、わが身を虚空(こくう)のなかに同化
させようとする。これがすなわち、自らのために修行に精進する声聞のさ
とりの成果であり、煩悩のしがらみから離れる方途なのである。
「大日経」住心品(じゅうしんぼん)に、大日如来が秘密主に次のように
仰せられた。
「世間の三つの妄執(もうしゅう)[異生羝羊心、愚童持斎心、嬰童無畏
心]をのり越えれば、世間を超えて、さとりを求める出世間の心が生ずる。
 これはいってみれば、眼前にあるこの世のすべては、ただ存在要素のみ
が実在しているだけであって、本来から在ると思いこんでいる自我は存在
しないことを、明確にさとることが、唯蘊無我なのである」と。

 これを平易に注釈すると、道教、儒教などの教えでは、我と我がものは
実在すると考えている。このような誤った妄執によって生死の間をさまよ
うのである。
 世間最高の非想非非想処天に生まれても、いつかまた天から墜落する。
そのゆえに、みほとけは、教えを聞いてさとりにはいる「声聞」を求める
人々のために、我(が)は無(む)、つまり固体存在は空無であり、存在
要素だけが実在することの真理を説かれたのである。
 標題にいう「唯蘊無我」の一句のなかに、すべての小乗の教えがおさめ
られている。そのゆえに、いま声聞乗を唯蘊無我住心と名づけるのである。
 また「華厳経(けごんぎょう)」においては、声聞という名の意味を、
次のように説かれている。
「十善業道、最もすぐれた十の善き行為で、自分のために修行をする。け
れども、その智慧(ちえ)はまだまだせまく劣っているので、三界六道の
輪廻を怖れて、生きとし生けるものの苦を救う大悲(だいひ)が十分でな
い。他の師の、教えを説く声を聞いてさとりにはいることができるので、
声聞と名づける」と。

 お釈迦さまが悟りをひらき、最初の説教によって羅漢(らかん)のさと
りを得た鹿野苑(ろくやおん)の五比丘をはじめ、舎利弗(しゃりほつ)、
目連(もくれん)、阿難(あなん)、迦葉(かしょう)など、佛の教えを
聞いて佛道にはいった釈尊教団の人々は、みなこの声聞です。
 有我論(うがろん)に立脚した道教などの教義では、その教えをいくら
究めても、この世の生の執着から所詮(しょせん)のがれることはできま
せん。むろん解脱(げだつ)など無理な話です。
 皆様ご存じの、耶馬台国の女王卑弥呼は、鬼道をよくし、衆をまどわす、
と「魏志和人伝」に述べられています。古代中国では道教のことを鬼道と
書いています。だから卑弥呼は道教的な仙術(せんじゅつ)をマスターし
ていたのでしょう。
 当時の道教がどんなものか簡単にいいますと、それは神仙思想と不老不
死です。神仙思想とは、神通力を持った神仙が住む神秘な世界が存在する
という信仰のことですが、当然人々は神仙に不老長寿を求めました。です
から神仙思想と不老長寿は切り離せないものです。
 この神仙思想は、紀元前三世紀の秦時代の前の戦国時代から民衆に信仰
されていました。ところが秦の始皇帝が現れ、秦を統一してから、始皇帝
は不老長寿を求めたり、仙術者を集めて自分の健康を祈願(きがん)させ
たりしました。
 秦の始皇帝が不老長寿の薬を得るために、東海の三神山に徐福(じょふ
く)を遣(つか)わしたことは有名です。徐福が訪れた神山には、倭人の
国も含まれているようで、和歌山県の熊野や、佐賀県の諸富(もろどみ)
町などにも徐福の伝承が残っています。
 このように道教は、生の執着から逃れるどころか、むしろ、どうすれば
死なずにすむかに一生懸命なのです。

 本題にかえって、この生への執着を断ち切る唯一の方法は、佛教の無我
観をもってこれを救うしかないというのがこの論旨です。
 つまり自我というものは色(物質)と、心の四作用である受・想・行・
識(感受作用、表象作用、意志作用、識別作用)の五蘊が、仮に集まって
成りたっているのであって、その元素は、万有を構成する地(固形物質)、
水(液体)火(熱量)、風(運動性)の四大に還元できるとしています。
 このように、人間の心身は本来空であって、構成する要素を分析してみ
ると、そのどこにも我(われ)というものは存在しない。これを我空(が
くう)、または人空といいます。
 ただ声聞のレベルでは、せいぜい唯蘊無我どまりで、心身の無我までは
理解できたとしても、全宇宙の存在までが空であるという、法空の観(か
ん)まで理解することができないとされております。
 したがって、無我という観念に徹し、解脱をうるため「四諦四念にその
観を瑩(みが)く」必要が生じるのです。四諦とは苦諦、集諦、滅諦道諦
のことです。

 四 諦
   苦諦(くたい) 現在の果────┐
                   ├──有漏法(迷)
   集諦(じったい)過去の因────┘

   滅諦(めつたい)未来の果────┐
                   ├──無漏法(悟)
   道諦(どうたい)現在の因────┘

 漏(ろ)の字は、煩悩という意味に解釈すれば分かりよいでしょう。
 煩悩にしがみついていると、いつまでたっても生死流転の苦しみから抜
け出せないので有漏と呼び煩悩を断った悟りの境地を無漏といいます。こ
の有漏の苦しみから脱して、無漏の安楽を得るためにおこなう佛道精進の
一つがこの四諦観法(かんぽう)なのです。
 苦諦とは、人生には暮らし向きのこと、愛情問題、老、病、死といった
さまざまな悩み、不安、苦しみがあり、片時も心の休まることのないこと
を認識して、その執着を離れ、三界からの解脱をはかろうとする観法のこ
とです。
 そして集諦の観法にはいり、その苦の原因は結局煩悩によって生じたも
のであり、その煩悩は貪・瞋・癡(とんじんち)の三毒によりひき起こさ
れている。際限なく欲ばり貪(むさぼ)り、自分の意に反すれば理非を問
わず怒り、自己中心の世界にとじこもって、何が正しく何が正しくないか
真実を見ようとしない癡(おろか)かな精神が、種々の煩悩を生み出して
いる。
 そういった因果律の真相を見きわめ諦観(たいかん)するのがこの集諦
です。
 滅諦とは、すなわち寂滅為楽(じゃくめついらく)の理想郷で、煩悩を
断ち切り、苦の因をなくした常住安楽の涅槃(ねはん)のことです。いわ
ゆる六つの超自然的な力や、八種の瞑想力でもって八解脱を得た声聞(し
ょうもん)の最上位を占める羅漢になって、はじめて得られるとされてい
ます。
 この羅漢の境地である理想郷に到達するためには、どんな修行をすれば
行けるのか、その道程を示したのが道諦です。道諦を簡単に説明すると、
煩悩の因ともいえる貪瞋癡の三毒を退治する方法として、戒(かい)、
定(じょう)、慧(え)の根本を学習する。

 戒は身を律し、あらゆる誘惑に負けない。定は禅定で、静観瞑想(めい
そう)して内面の煩悩を起こさせない。
 慧は、煩悩を断つことによって生ずる真の智慧(ちえ)のことです。
 この戒定慧は道諦の基本をなすもので、「二百五十の戒は身口の非を防
ぎ、三十七の菩提は心身の善を習う」とあるのはこのことにほかなりませ
ん。
 第四住心は、これまでの住心にくらべると少し難解ですが、出世間の教
えとしてはそれでも初歩とされ、次の第五住心以上からみると評価が低い
ようです。
 でも原始佛教の教義はみなこの中に収められ、お釈迦さまが弟子たちに
直接説かれた最も正しい教えといえるのではないでしょうか。


佛教に帰依(きえ)して両耳を開く縁  『日本霊異記』より

 推古天皇の御世(みよ)に義通という者がいた。ある時彼は重い病をえ
て両耳が聞こえなくなってしまった。
 長い間治療につとめたが、いっこうに快くならない。そこで義通は、
「これはきっと、前世の罪の招いた結果だ。今の苦しみはこの世だけのも
のではなく、来世にも報いを受けるだろう。このまま永く生きて人に嫌わ
れるよりは、いっそのこと早く死んだほうがよいかもしれない」と考える
ようになった。
 気持ちを切り換えた義通は、さっそく身をきよめ、佛堂を荘厳し徳の高
い禅師を招請(しょうせい)して、大乗経をくりながら、一心に拝むよう
になった。
 そんなある日のこと、不意に霊感がひらめき、彼は禅師に言った「いま、
私の片方の耳に、一人の菩薩のお名前が聞こえたような気がします。どう
かお坊さま、この耳の中の菩薩さまのために拝んでください」
 それならば、と禅師はかさねて拝む。すると片方の耳が聞こえた 義通
はこおどりして、もっともっと拝んでくれ、とせがむ。
 さらに禅師が拝んでいるうち、とうとう両耳が聞こえるようになった。
佛に人の心が通じるというのは、けだし本当なのである。



前稿/其の七次稿/其の八


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