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十住心論四季の閑話

− 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の九 −

                     観自在編集部

第五住心「抜業因種心(ばつごういんじゅしん)」


 抜業因種心とは、業因(ごういん)の種を抜除(ばつじょ)するという
意味です。
 業因とは悪業(あくごう)の因、すなわち十二因縁のことで、人間存在
を成り立たしめている十二の条件(無明、行、識、名色、六処、触、受、
愛取、有、生、老死)の原因である根源的な無知を取り除く心のあり方で
す。
 前の、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)で到達した、個別的存在には実
体がない、とする声聞の世界から、さらに進んで根源的な無知を滅(めっ)
することを理想とする縁覚(えんがく=教えによらずみずからさとった者)
の心のあり方を示したものです。

 抜業因種心とは、ひとりで修行してさとる縁覚の体得(たいとく)すべ
き心のあり方であり、数人一緒に行動してさとる縁覚が実践する心の在り
方である。
 自己を考えるとき、因縁(いんねん)によって生滅(しょうめつ)する
十二の条件を整理して観察し、身体の構成要素である四つの元素(地、水、
火、風)と、人間の精神を構成する五つの要素である五蘊、色(物質)受
(感受作用)想(表象作用)行(意志作用)識(識別作用)の実相を知っ
て、生死(しょうじ)の因縁を除こうとする考え方である。

 自然界はたいへん多くの示唆と暗示をわれわれ人間に与えている。
 美しく咲く花、もえいずる若葉をながめると、そこに芽生え、成育し、
季節になれば春を謳歌(おうか)し、時が刻々とうつろい、やがて無残に
凋落(ちょうらく)し、滅してゆく無常の姿をまざまざと見せつける。
 縁覚の修行者は麟角(麟角喩独覚=りんかくゆどっかく、のことで、師
もなく伴侶もなくつねに独居して修行し、十二因縁を独りさとり、他のた
めに真理を説かない聖者のこと)、部行(部行独覚=ぶぎょうどっかく、
のことで、伴侶をともなって同じ法を独悟(どくご)する。
 初めは僧団の一員として同伴者とともに修行し、のち佛のもとを離れて
独りでさとりに至るとされる)の二種の修行をとわず、いずれも、言語を
まったく絶った瞑想(めいそう)の境地を体得するのである。
 人間の悪い心のはたらきと、煩悩の生ずる根本を、このような透徹した
観察と無言の三昧(さんまい)とをもって抜除し、根源的な無知無明とい
う種子を、これによって取り去るのである。

 佛教以前の古代インド宗教であるバラモンなどは、この縁覚の境界をは
るかに望むだけで、これに近づこうとしない。
 縁覚は煩悩を断って孤高の境地を独りでたのしみ、わずらわしい因果関
係に束縛されることなく、真実の世界に悠々と住している。
 戒(かい)は、他より授(さず)けられるまでもなく自然にそなわり、
師を持たず教えられることなく、十二因縁の理(ことわり)をおのずから
さとる智慧(ちえ)を持つ。
 涅槃にいたるための三十七菩提分法は、師によらないでみずからさとり、
五蘊(ごうん)・十二処・十八界の法(すべての存在を三種に分類したも
ので五蘊、十二処(眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官とその対象十八界[六
つの感覚器官と、その六種の対象と、そこにはたらく六つの識別作用])
は、師によることなく知悉(ちしつ)する。
 ただ縁覚は、生きるもの、衆生に対する深い慈悲に欠けているので、そ
れを救う智恵がそなわっていない。ひたすらみずからの苦をすべて断ち、
心身を滅した涅槃にいたるのである。

 だから「大日経」住心品(じゅうしんぼん)に説く「業と煩悩の根本、
すなわち根源的無知の種子である十二因縁が生起するのを抜除する」と。
「縁覚はまた、声聞にくらべて智慧に多少の差異がみられる。すなわち、
両者は、煩悩を完全に断っている点において同じであるが、三昧の浅い深
いとに差がある。声聞はただ、無知によってひき起こされる現象を除くだ
けだが、縁覚はさらに無知の根本を断って、新たに生起する煩悩のもとを
完全に除く」と説かれている。

「守護国界主陀羅尼経」は、十二因縁を次のように説いている。
「また文殊菩薩よ、如来は、すべての禅定三昧において煩悩を伏滅(ふく
めつ)し、生起する因縁を真実ありのままに知っておいでなのである。
 如来は、どうしてそれをお知りになられるのか。それは、すなわち衆生
の煩悩が生起するのは、何の原因によって生じ、何の条件によって生じる
かをお知りだからであり、煩悩を滅し、煩悩のけがれがなく清浄(しょう
じょう)なることは、何の原因によってよく滅し、何の条件によってよく
滅するかを知っておいでだからである。
 煩悩が生じる因縁とは、よこしまな思惟(しい)である。このよこしま
な思惟をもって根本原因とし、無知無明(むみょう)を条件とする。
 さらに無明を原因として行を条件とする。行を原因として識を条件とす
る。識を原因として名色を条件とする。名色を原因として六処を条件とす
る。
 六処を原因として、触を条件とする。触を原因として、受を条件とする。
受を原因として、愛を条件とする。愛を原因として取を条件とする。取を
原因として有(う)を条件とする。有を原因として生を条件とする。生を
原因として老死を条件とする。煩悩を原因として業を条件とする。迷妄の
見解を原因として貪(むさぼ)りを条件とする。意識下に潜在する煩悩の
種子を原因として、顕在化した煩悩の障害を条件とする。
 以上が煩悩の生起する原因と条件である」と。

 また、「大日経疏(しょ)」は次のように述べる。
「業とは十悪業である。因とは十二因縁である。種とは根源的無知の種子
である。
 声聞がその智慧をもって唯蘊無我をよくさとるのは迷いの世界に生まれ
ることを厭(いと)い怖れる心が強いあまり、煩悩をすみやかに断って、
みずからの涅槃におもむこうとする。したがって、十二因縁の実相を分析
し推量するだけの心のゆとりがもてない。
 辟支佛(びゃくしぶつ、縁覚)は智慧が一歩前進しているから、十二因
縁を全体にわたって深く観察して、一切の苦の原因は煩悩、妄執であり、
それらをすべて消滅した状態を究極の理想であるとする。この点が声聞と
異なるところである」と。
 したがって、業と煩悩の根本と根源的無知の種子を抜き取るという。こ
れが辟支佛(縁覚)の修行すべきところであり、体得すべきところである。
 この抜業因種心の一句のなかにことごとく辟支佛の教えをおさめつくし
ているので、縁覚乗を抜業因種住心と名づけるのである。

 私たちは毎日、ある目的意識をもって暮らしています。その目的が、他
人からみるとどんなに些細なものであったとしても、本人にとってはきわ
めて大事で、大真面目にその目的を完遂しようと取り組みます。
 たとえば、美容と健康のためにきょうから体重を減らそうと決心したと
仮定します。身体をスリムにするにはなんといっても摂生と節食が大切で
す。でも減量作戦を開始したとたん、これまで思ってもみなかった苦痛が
際限なく押し寄せてくることでしょう。
 見るからにおいしそうな御馳走やケーキ類が、これみよがしに、強烈な
誘惑の手をさしのべ、折角の決心にゆさぶりをかけてきます。
 それがつまり、私たち人間に共通する惑(わく)、まよいの心なのです。
 食欲に目がくらんで、少しぐらいなら大丈夫だろうと、固い決心をひる
がえして、ついついそれに手をのばす、それが業、さまざまな報いを引き
起こすおこないです。
 この惑が生じ、業をおかしてしまった結果、せっかくの減量作戦が元の
もくあみに帰り、自分の意志の弱さにほとほと愛想をつかし後悔のほぞを
噛むのが、すなわち苦というものなのです。
 煩悩が服を着て歩いているような私たち人間の日常は、考えてみると、
こうしよう、あのようにありたいとねがって決心し、その目標に向かって
努力を惜しみませんでも、その間いろんな誘惑の罠が待ちかまえ、それら
に迷ってむさぼり、あげくは、苦しむといった、惑、業、苦の繰り返しと
いってもよいのではないでしょうか。

 この惑業苦の悪循環をよく見きわめることから始めて、十二の因縁の生
起する原因を根本から断つというのが抜業因種心、つまり縁覚乗なのです。
 なお縁覚、声聞は二乗といい、菩薩乗、佛乗の大乗に対してこの二乗は
小乗です。乗は乗り物と解釈してよいでしょう。乗り物に速い遅い、快適
性便利性があるように、教法にも信仰心の機根(きこん)に応じて浅深い
ろいろあります。
 小乗教が菩薩の大乗にくらべて劣るとされるのは、菩薩は発心のときか
ら自利(じり)と利他(りた)を念願としますが、二乗は自己の解脱(げ
だつ)だけを願って利他、衆生に対する慈悲に欠けている、という点にあ
ります。
 つまり縁覚、声聞の二乗は、衆生を済度する佛教ではなく、あくまでも
自分のためだけの佛教なのです。だから小乗なのです。


   心根のねじくれた男
        母に孝養せず悪死の報いを得る縁
                −「日本霊異記」より−

 孝徳天皇の御世(みよ)、大和の国添上(そうのがみ)郡に、心のねじ
まがった男がいた。
 男は大学寮で学問に励む学生という恵まれた身分であった。(当時、大
学は日本に一つしかなく、佛教を学ぶ者と、官吏(かんり)をめざす者の
二コースに分かれていた)
 男は多くの書物を読みあさり、古賢人たちの偉大な足跡などを学んだは
ずだが、母に対して毛ほどの息子らしい優しさを示さなかった。そればか
りか、母に貸した稲米を早く返してくれと、まるで赤の他人にいうように
催促する始末である。
 母が、もうすこし待っておくれと言い訳でもしようものなら、たちまち
青筋をたてて母を責める。
 母は地べたに土下座し、息子は高い座にあぐらをかくといった、そんな
見苦しい正視にたえかねる光景であった。
 たまらず男の友だちが、
「友よ、汝の所業はどうみても孝行にほど遠いぞ。世間の人々は父母のた
めに塔を建て、佛をつくって経を写し、衆僧を招いてねんごろに供養する。
汝の家は財産があり、貸し稲が多くて結構なことではないか。なのに、ど
うして学問の教えに背いて、そうも母に邪険(じゃけん)なのか・・・」
と忠告する。
 男は、「要らぬおせっかいだ。人のことはほっといてくれ」と、冷笑を
泛(う)かべて、うそぶくだけだった。
 義憤(ぎふん)にかられた友人たちは、かわいそうな母に代わって、借
りた分を返済してやり、みんな男との交際を断って去っていった。
 母は泣きながら息子にいう。
「私はこれまでお前を大事に育ててきた。よその子が親に孝行をつくすの
を見るにつけ、わが子も大きくなったら、あのように孝養してくれるもの
と楽しみにし、期待していたのに、それがどうだ。こんな体たらくで、わ
が息子にかえって辱(はずかし)めをうけている……」と、母はその乳房
を男の前にさらして「私はまちがっていた。きょうかぎり母でもなければ
子でもない。お前は、私が借りた分の稲はもう取り返しているから、こん
どは、私がこれまでお前にくれてやった乳代を取り返す番だ。さあ、返し
てくれ」と詰め寄った。
 男は無言のまま立ち上がると自分の部屋に行き、稲米貸付証文の束を取
り出してきて、よろよろと庭におりるとそれを焼き始めた。
 そのあと、男は気が狂ったのである。意味もなく髪をふり乱して身体を
傷つけ、あちこち走り転んで、かたときも、家でじっとしていることはな
かった。
 三日後、男の家から出火し、屋敷と倉が全焼した。
 焼け出された男の妻子らは、途方に暮れるばかりであった。
 そして男は、身を寄せるところもなく、ついに餓えこごえて死んだので
ある。
 この世の悪業の報いは、現世においてすぐあらわれる。どうして信じな
いでいられようか。だから「観無量寿経」に、
「不孝の衆生は、かならず地獄に堕(お)ち、父母に孝養すれば、浄土に
往生する」とあるのである。
 これ如来の説くところ、大乗のまことの道である。

 まことの道は遠からず、わが足もとを始めとし、わが目の前にあるもの
を、わが心に霧をかけ、思い悩んで見失う。
 それ幸いは遙かにあらず、心中にして即ち近し、身を捨てて何れに求め
る、あわれなるかな迷えるものよ、ながき眠りの目を覚ましまことの道を
歩み出せ。
 光も暗も心から、身をつつしみて十善の教え奉じて歩み行く、この姿こ
そ幸いなり。われら讃えん天地のまことは法のみおやなり。



前稿/其の八(97/03)前稿/其の十(97/05)


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