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月刊「観自在」十住心論四季の閑話

− 弘法大師著「秘密曼荼羅十住心論」より 其の十 −

                     観自在編集部

第六住心「他縁大乗心(たえんだいじょうしん)」

 他縁は無縁(むえん)と同じ意味で、自分とは関係のない不特定多数の、
どのような人々に対しても、無条件で、平等な慈悲をもって楽を与え、苦
をぬく大乗教の心のありかたのことです。

 自分一人のさとりをめざす唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)の声聞乗
(しょうもんじょう)、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)の縁覚乗
(えんがくじょう)の小乗佛教にくらべ、この住心(じゅうしん)は、
とらわれなき慈悲のはたらきをもって、すべての者を教え導き、救済する
ところにその特色があります。
 でもこの住心は大乗佛教においてはまだ初歩とされ、法相宗(ほっそう
しゅう)がこれにあてられています。

 ここに菩薩(ぼさつ)の教えがある。名づけて他縁乗という。これはバ
ラモンや声聞、縁覚をはるかに凌駕(りょうが)する住心である。
 二空(にくう)や三性(さんしょう)ををさとることによって、我執、
妄執を洗いながし、衆生に安楽を与える慈、衆生の苦悩を取り除く悲、
他人が安楽を得るのをよろこぶ喜、他人に対して平等無差別である心の捨、
すなわち慈悲喜捨の四無量心と四摂法をもって他人のためにはたらく。

二空
@実体的な自我は存在しないとする我空
Aすべての存在は原因と条件によって生じているものだから、
それ自体は本性がないとする法空

三性(さんしょう=存在の三種類の見方)
@遍計所執性、A依他起性、B円成実性。
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)は、実在しないものを
実在するかのように妄想して、それに執らわれること。
 依他起性(えたきしょう)は、原因、条件によって、すべては
生起しているもので、仮の存在にすぎないとすること。
 円成実性(えんじょうじつしょう)は、ありとあらゆるものの
真実の本性、絶対真理のこと。

四無量心(しむりょうしん)
菩薩がすべての人々を救うための布施、愛語、利行、同事の四つの方法。
布施は真理の教えを施したり、物を与えること。
愛語は、やさしい言葉をかけること。
利行は、善き行為によって人々のために尽くすこと。
同事は、相手と同じ姿をして近づき、共に仕事をすること。

 人間の意識下にひそむ微妙な心理を思索(しさく)し、幻(まぼろし)
や陽炎(かげろう)のような、あるように見えて実際には存在しない心の
ありかたの観察にひたすら意をそそぐ。
 菩薩になるための修行は、芥子劫(けしこう)、石劫(しゃっこう)の
無限に近い時間を要する。
 その間、菩薩の修行の段階である五位をきわめなければならない。
 五位とは、資糧位(しりょうい)、加行位(けぎょうい)、通達位(つ
だつい)、修習位(しゅじゅうい)、究竟位(くきょうい)のことである。

 こうして得られたさとりは、最もすぐれたもののなかの最もすぐれたも
ので、これによって言葉からも文字からも離れた静謐(せいひつ)でゆる
ぎない境地に到達することが可能である。絶対真実の台(うてな)に両の
手を合わせて敬礼(きょうらい)すれば、光りかがやく真理の世界が門戸
をひらいて招じ入れてくれることであろう。
 この永い修行に耐えた者たちは、ここに最高の位を有する者として、四
つの智慧(ちえ)をもった真理の透徹(とうてつ)者という名をはじめて
得ることができるのである。

◆四つの智慧◆唯識(ゆいしき)の理法に到るための大円鏡智、平等性智、
妙観察智、成所作智のこと。
・大円鏡智(だいえんきょうち)、大きな円鏡がすべてをありの
ままに映しだすように、すべてのものをそのままに知る佛智。
・平等性智(びょうどうしょうち)、すべてのものが平等である
ことを知る佛智。
・妙観察智(みょうがんざっち)、すべてのものの差別をそのま
まに知る佛智。
・成所作智(じょうしょさち)、人々の救済のためにはたらきか
けて事を成就する佛智。

 こうして、さとって得たのち、人々に寄せる慈愛は、迷いの世界に住む
あらゆる者たちにあまねくゆきわたって限り無い。経、律、論のおきてを
つくって、声聞、縁覚、菩薩になりうる素質をもった者たちを指導し、
十善戒の規則をつくって、あらゆる迷いの世界の者たちを導く。
 教えについていえば声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の三つであり、識(しき)
についていえば眼、耳、鼻、舌、身、意、末那(まな)、阿頼耶(あらや)
の八つである。
 法相宗においては五性を説く。
 それは人々が先天的に具(そな)えている宗教的素質を声聞定性、縁覚
定性、菩薩定性、不定性、無性の五つに分け、このうち前の三つは受ける
果報が確定し、第四は菩薩、縁覚、声聞のいずれにもなりうる可能性があ
り、第五は永久に迷いの世界にあり、五戒、十善を守ることによって人間
界、天界に生まれることができるとする。つまり五性には佛になれる者と
なれない者とがいるということである。

 三種の佛身についていえば、法身(ほっしん)は永遠であり、報身(ほ
うじん)、応身(おうじん)は生滅(しょうめつ)する。百億の応身は菩
薩のために六波羅蜜を説き、一千の蓮葉の上に光る釈迦牟尼佛は、声聞乗、
縁覚乗、菩薩乗の三つの教えをひとしく授ける。

◆六波羅蜜(ろくはらみつ=布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。
菩薩の六つの修行の徳目)

 この法界(ほっかい)の生きとし生けるすべてのものを縁(えん)とす
るから他縁(たえん)という。
 羊のひく車にたとえられる声聞、縁覚の小さな乗り物とちがうから「大」
という名があり、自分も他人も真実の世界に到らしめるから乗(じょう)
という。これはすぐれた人の志すところであり、菩薩の心の用い方である。
 なお、ここにいう他縁乗とは、すべての人たちを平等に救済(きゅうさ
い)しようという大誓願(だいせいがん)をおこして、この世界の生きも
のすべてのために菩薩の道を実践し、多くの不信心の者をはじめ、声聞、
縁覚のうち未だに大いなる安らぎの境地に達しない者も一緒に、さまざま
な方便をもって心服させ、あまねく同じようにこの教えに誘導しようとい
う意味である。

 このように、どんな無縁(むえん)な生きものに対しても、大いなる慈
悲がゆきわたるから他縁乗と名づけるのである。
 また無縁乗とは、迷いを越える段階にいたって、はじめて深甚にして複
雑な人間の潜在意識を観察し、すべてこの世界はただ心のみつまり人間の
潜在意識だけがあるのであって、心のほかに何ひとつとして存在するもの
はないと了解する。この無縁の心の教えによって、大いなるさとりの道を
実践するので無縁乗ともいう。
 大乗佛教中の法相宗は、以上のごときを主要な教えとして、これがいわ
ゆる菩薩の教えであり、梵語で菩薩のことをボーディサットバ(菩提薩捶
=ぼだいさった)といい、二字を省略して菩薩というのである。

 法相宗は、弥勒菩薩が都率天(とそつてん)から降りてきて、中国の高
僧、無著(むちゃく、五世紀の人)のために「瑜伽論(ゆがろん)」を説
き、その教えを無著がひろめたのが始まりです。
 また無著の弟世親(せしん)は「唯識論(ゆいしきろん)」を著わし、
さかんに万法唯識の教義を説きました。

 日本には孝徳天皇(7世紀)のとき、僧道昭(どうしょう)が入唐(にっ
とう)して伝えたのが始まりで、その後、奈良時代に大変な隆盛をみました。
 法相宗は、宇宙万有は唯識の所産であり、その実体はすべて空であると
する考え方によってつらぬかれ、その教えの根幹をなしています。
 ところでこの唯識ですが、その大意は、私たちが現在眼にしている一切
のものは、すべて実体のない空であり、無であって、それらは幻にすぎな
い、とする観念です。

 毎日生活を共にしている家族も猫も友だちも、家も家具も、街も山も海
も、いま現実に眼に映っている物事いっさいの現象は、それを認識する人
間の心の現れだとする考え方です。
 自然も街も人も、それを意識する人間の心があるからこそ、はじめてそ
こにものが存在していると認めることができますが、その対象を、対象と
して認識する人間の心のはたらきがなければ、その対象物は必然的に消滅
してしまい、無であり空のはずであるというのです。
 ある朝目覚めると巨大な毒虫に「変身」していたカフカの小説の主人公
のように、私たち人間は、いつも私自身であるという保証はどこにもあり
ません。たとえば、夜眠るときはたしかに自分であったけど、翌朝起きて
みると全然別人として目覚めた、などということが起こるかもしれないの
です。

 私たちがときどき襲われることのあるあの奇妙な感触−−−なぜ私はほ
かの誰でもない、この私として、ほかならぬ今、ここにこうしているのか。
ほんとうは、この世は夢なのではないか、と疑問を感じることがあります
が、これは必ずしも突飛な認識とはいえないようで、私たち人間としての
存在性の不確かさであり、その根底をなしている意識の曖昧(あいまい)
さといってよいのではないでしょうか。
 さて、本号で紹介している「日本霊異記(にほんりょういき)」の撰述
者は唯識の流れを汲む法相宗の人です。
 奈良薬師寺の僧景戒(きょうかい)という人で経歴、生没の時期は不明
ですが、一介の私度僧(しどそう)だったようです。


  諾楽(なら)薬師寺の沙門景戒録(しる)す
                      「日本霊異記」より


 古くを尋ねてみると、佛典漢藉が日本に伝わったのは二つの時期に分か
れている。応神天皇朝に論語が到来し、欽明天皇朝に佛像経論が、いずれ
も百済からもたらされた。
 けれども儒教を学ぶ者は佛法を誹(そし)り、経論を読む者は儒学をか
ろんずる。事理(じり)を解(かい)しない愚かな者たちは、五逆十悪の
悪果と、五戒十善の善果を信じず、ゆたかな智恵を有する者は、佛教、儒
教を学んで因果応報(いんがおうほう)の理(ことわり)を習得する。

 仁徳天皇は山に登って国じゅう炊煙の見えない民の暮らし向きを悲しみ、
みずから雨の漏る宮殿に住んで庶民の貧窮に思いを馳(は)せた。
 聖徳太子は、明晰な頭脳と判断力によって将来にそなえ、一度に十人の
訴えを聞いて一切を処理した。また太子は、三十五歳のとき推古天皇の要
請によって大乗経を説かれ、法華経義疏(ぎしょ)、維摩経(ゆいまぎょ
う)義疏、勝鬘経(しょうまんぎょう)義疏を著わし、この三経義疏は末
代(まつだい)に伝わる。
 あるいはまた、聖武天皇は自ら悟りをひらき、一切衆生(しゅじょう)
をことごとく救う弘大な誓いを発願(ほつがん)して佛像を建立し、天地
の神神のご意思にしたがって、宝の蔵をひらかれた。

 また、行基菩薩をはじめとして高僧たちの徳は、十地の菩薩にひとしく、
道は声聞、縁覚の小乗をはるかに超越して尊い。
 智慧(ちえ)のはたらきで暗い迷路を照らし、慈しみの舟を運んで溺れ
る者を救いあげる。それら高僧たちの難行苦行は己のためにではなく人の
ためのものである。そうした智者による人心を導くすばらしい功績もまた
限りなく大きい。
 ここに諾楽の西京(さいきょう)、薬師寺の沙門景戒が、世人の行状を
つらつら観察するに、せっかく学問が優れていても、品行が卑しく、利益
に執着してわれを忘れ、磁石が鉄を貪欲に吸い寄せる以上に、他人の物を
ほしがり、自分の物を惜しむありさまは、臼の先に付着した粟(あわ)粒
まで糠(ぬか)がわりにして食べかねないほどの欲深さである。
 寺の財物をくすねた報(むく)いで牛に生まれて前世の償(つぐな)い
をする羽目になったり、あるいは法僧を誹(そし)って災難に遇ったり、
反対に、佛教を信じ善行を積んで、この世ながら幸いを受ける信心深い人
もいる。

 善悪の報いは影が形に添うように、苦しみや楽しみが、人の所業(しょ
ぎょう)に応じてあらわれることは、さながら谷がこだまを返すようであ
る。
 それらを見聞きするにつけても、それがこの世の実際の出来事であるこ
とを忘れる。
 自己の罪を悔(く)い、恥じるものは、にわかに胸がいたんで、急いで
その場から立ち去る。
 このように善悪の報いが、歴然として顕著であることを示さず、うやむ
やの状態に放置しておいて、何を規準にして、悪心を正し、人のよしあし
を決めることができようか。
 因果の報いを明示しないで、何によって悪心を改め、善道を修(おさ)
めることができようか。
 むかし漢地においては「冥報記(みょうほうき)」をつくり、「金剛般
若経集験記」をつくった。
 なぜ、我が国では外国のその種の書物をありがたがり、自国の歴史の奇
事記述をないがしろにし、後世に継承しようとしないのであろうか。

 ここに、おし黙ってそのまま打ち捨てておくことに耐えきれなくなり、
自分で見聞したことを少しばかり書きつける。
 名づけて「日本現報善悪霊異記」とし、上中下の三巻として、後世に伝
えることにする。
 けれども景戒は、井の中の蛙(かわず)のごとき狭い知識しか持ち合わ
せていない。
 言い伝えがはっきりしない箇所は、書きたりないで、不明瞭なところも
あることだろう。しかし、善行をこいねがう至心(ししん)を抑(おさ)
えきれず、あえて筆をとったのであるから、後世の賢者、どうか笑わない
でほしい。ねがわくは読者よ。悪行をせず、善行を履(ふ)みおこなわれ
んことを。




前稿/其の九(97/04)前稿/其の十一(97/06)


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