如 是 我 聞 
              文責 能島慶華 −観自在97.9月号(1)

 ************************************************
  だんだん彼岸が遠くなる気の毒な人たち
     くたびれた、しんどい、なんて大凶運に
 ************************************************

 言葉はその人の心を表しています。身体の状態を示している場合もあり ます。働き過ぎると疲れて「しんどい」とか「くたびれた」と言いたくも なります。ところが、疲労が回復しても、「しんどい」とか「くたびれた」 と口癖になる人がありれます。周囲の人は心配しますね、度が過ぎると、 狼少年です。信頼を失い、周囲から頼りにされなくなる、弱肉強食の世の 中です。その上に粗暴な言葉づかいでもすれば、だんだんと彼岸が遠くな り、地獄の口がポッカリと空いて待ち受けています。   体の具合が悪い人はすぐ医者に行きましょう        くたびれた、と言うだけでは回復しない 人が口に出す言葉は、その人の現在考えていること、健康状態、環境、 育った歴史、将来の可能性を如実に示しているものです。  「くたびれた」、「しんどい」などと言う時は、もしかすると、病気の 前兆、運が悪いと初期の癌が出来ているなどと推察されます。  これを聞いて放置するのは周囲の人に重大な責任があります。  医者に行って早期に診断を受けるよう勧めなければなりません。  医者に診てもらって薬をもらっても、飲まない。注意事項も守らない。 療養もしない。このような場合は医者も匙を投げますし、周囲の人も愛想 を尽かします。  くたびれて、疲れ切って、そのうち死ぬことになるでしょう。  ところが、健康になっても「くたびれた」、「疲れた」、「しんどい」 を連発する人があります。 周囲の人も最初は同情してくれますが、ひ弱 な木陰では安心できません、寄らば大樹の影と、いつの間にか逃げてしま います。  これが現世の酷しいところで、軽々しく投げやりな言葉を使っては駄目 だと言うことでしょうか。  このような言葉が口癖になっている人は、以前に疎まれた経験をもって いますから、被害妄想を起こしやすく、それが裏返しとなって他人に失礼 なことや、言ってはならないような無礼な言葉も使う習性を合わせてもっ ておられる場合が少なくありません。  「疲れた」と自分で言って、他人から労(いたわ)りの「大切にしなさ い」と言われて、「自分ばかり仕事をさせられる」と言えば被害妄想。 「貴方には分からない、うるさい」と言えば、人間関係がプッツンします。 そして被害妄想の傾向が更に強くなれば悪循環ですね。  精神的な疲労は肉体的疲労より大きなダメージを受けることがあります。 丁寧な人でも、疲れると粗暴になることがあります。  粗暴になれば、より乱暴な言葉で他人を傷つけます。夫婦であれば離婚 話、職場であれば退職癖、子供なら登校拒否などになります。  結果はさまざまで、粗暴になって他人を苛める、社員を次々と解雇する、 離婚する、不倫する、悪い友達と意気投合する、このようなことは珍しく ありません。      言い募って判断力を失い          大切な人に粗暴な言葉を使う 思慮を失うことは怖いことです。粗暴な言葉に罵詈雑言を続けて、自分 よりは、はるかに実力のある相手を立腹させる。その場で無茶苦茶な論理 を展開しても、現代社会では通常は暴力を振るわれることはありません。 合理的に法律的に、あるいは資本や組織の論理で押しつぶされます。  尊敬している人や、愛している人を相手に、粗暴な言語を用いますと、 一度や二度、再三でも許容してもらえるかもしれません。ですが、本当に 思慮のない人は、限度を超えても気が付きません。粗暴な言語でなくて、 凶器を使って殺してしまった場合は、精神鑑定の申立てを、弁護士がする ケースです。  このような極端な例は別として、言語も用いようでは凶器になりますか ら、剃刀で少しずつ相手の心を切り刻んで行くのと同じようなことをやっ てしまうこともあります。思慮分別を失うことはとても怖いことで実害が あります。  綱渡りをするような人間関係と言えるかもしれません。  性格が良くない配偶者に切り刻まれている例は多いものです。このよう な場合、多くは片方が実力者であり、社会的に尊敬される人であり、片方 が一芸をもっている場合が少なくありません。  一芸はいろいろあります。美人も、美しい声も、絵が描けることも、何 でも良いのですが、何かを過信している、自信過剰である場合に、悲劇が 起きます。一芸は総合的な人格ではありません。一芸は磨けば光るもので すが、慢心した途端に挫折感と自己不信と被害妄想のかたまりになります。  このような人間関係は現世に地獄を見るようなことになります。  ある時点では総合的人格と一芸がバランスがとれて人間関係が成立した 過程があるとします。  総合的人格の優れた人は多くは成功します、一芸も秀でれば成功します。 人格者が自分を磨くことを怠った時、一芸に秀でた人が慢心した時に、悲劇 が起きます。  このような人間関係は金属疲労を起こしやすい関係です。人格者は他人 に慕われる、一芸に秀でた人は、他の一芸に秀でている人に慕われやすい 構造があります。  疑惑、不信、不満、被害妄想、不眠、実際には相手の居場所が不明とい うような気の毒な例も見てきました。  そのような悲劇が熟成されつつある時に粗暴な言語、これで一段落しま すが見ておれません。  このような場合に、御佛様を信じることができる、神経科の先生に助け てもらう、カンウセリングを受ける。このような出会いがあれば、破滅を 避けることも出来ます。  しかし、性格が素直でないと駄目なようです。神経科の先生に助言を受 ける必要が無いと言い張ります。自分が頭の中で血を流しているのが見え ないのです。  一芸に秀でている人や人格者くらい始末の悪いものはありません。  ところで、だれでも、自分に長所のあることは認めておられるでしょう。 だれでも、自分には優しさとか包容力があると思っています。全ての人が 人格者であり、一芸に秀でているわけです。  つまりは、だれでも慢心し、思い上がり、粗暴な言語で相手を傷つけ、 現世で地獄をみるような根源的な欠点をもっているのです。      その一口が地獄行き、言葉に気をつける        不妄語・不綺語・不悪口・不両舌と心の動き 酔っぱらいの戯れ言でも、喧嘩が起きるのですから、素面(しらふ)で 戯れ言を言うと大変です。  「酒の上」という言い訳が日本では通用するようですが、お酒を飲むと 本当に混乱する方があります。  欲求不満も混乱の原因、惑乱の原因になります。原因は何であれ、支離 滅裂ならともかく、一応の筋が通ったようにみえる粗暴な言語は、多くは 精神安定剤で改善されます。  僧侶も尼僧も例外ではありません。しつっこく絡まれて、「好きなよう にしなさい」とか「もう、勝手になさったら」と言う僧侶や尼僧は枚挙に 暇がありません。  真面目なお坊さんで精神安定剤を処方されておられる方は少なくありま せん。原因の一つに宗教者は「かくあるべき」と言う期待を込めた世間の 願望があって、その期待にそうよう行動するには、寺に居てお佛飯を頂い てる自覚が躾けられていないことから、宗教者としての自覚がないのです。  だから、不平不満にストレスもたまります。多くのストレスは、躾けが 出来ていないことから生じます。よく数珠を持つ身で、と世間から批判さ れますが、皆さんがご自分の子供を出家させて、皆さんの期待されるよう な僧侶にされることを望まれるでしょうか。  剃髪することが僧侶のあるべき姿だとは法主さんは言っておられまん。 しかしスーツを着て、髪を七分刈りにして、ベレー帽を被って、サングラ スを掛けて、馬鹿馬鹿しい限りだと言っておられます。  僧侶が世間の皆さんと全く同じように生活することは絶対に許されない ことです。  しかし、僧侶も悪口雑言(あっこうぞうごん)を言う例は、昔からたく さんありました。悪口雑言どころか、僧兵を養っていた時代もあります。 弁慶なんて、薙刀(なぎなた)を振り回して、人を殺して、最期は、立ち 往生ですが、あれって僧侶と言うよりは武士と言った方が適切です。  宗教戦争は昔も今もあります。不思議なことですが、信ずる者のために 死ねる、愛する者のために戦う、宗教には、そのような一面があることを 知って、そして如何に考えるが大切です。  法主さんが、ここに述べられていることは、倫理観が低下したことが、 ストレスを大きくすることになっていると説明されているのです。観音院 の倫理観、法主さんに言わせれば、大変にきつい言葉ですが、頽廃し堕落 している、反省し改善に努力しなければならないと評価されています。  それも他の寺院と比較しての評価ではありません。観音院の法主さんが、 ご自分の目で見て、考えて、観音院をそのように言われるのですから間違 いありません。  「腐ってはならない、腐らせてはならない」と常に言われます。私ども 観音院の僧侶は、ともすれば他の寺院と比較して、まだ良い方だと思うの ですが、それは通用しません。  十年以上も在籍していて、終(つい)の住処(すみか)を見つけたつも りで、安心していると、横着心も起きてきます。  不平不満も生じてきます。これを恥じる気持ちと反省する心が大事だと 教えられます。  至らぬ者の悲しさ、時には大目玉を落とされて愕然として、反省したり 涙が出そうになります。  これは観音院に限った話ではありません。多くの組織に共通する問題で す。皆さんのご家庭や勤務先で不条理なことや、腐っていることはありま せんか。  更に申し上げれば、頭が混乱して収拾が付かないのであれば、そのため に医者もおられるのですから、自分の心にたまっているものを相談してみ られるべきでしょう。  もっとも、お医者さんも忙しく、その上に多数の患者をこなさなければ 立ち行かない時代ですから、僧侶のように思って愚痴を述べて相手になっ てもらおうとされたらお医者さんに愛想を尽かされます。  だれでも「腐っている、堕落している」と言われたら、受け入れ難いで すね。  ですが、一見まともなように見えても、私は正しい、私は真面目だ、私 は一生懸命働いている、そのように自信がもてたら、その時には腐敗堕落 の奈落の底に落ちかけていると、法主さんは指摘されるのです。  観音院は運営も経理も公開しています。職員も真面目です。ここから、 ある種の気の弛みが生じます。この弛みが、法主さんの指摘される腐敗堕 落なんです。  ですが、表面が美しいから中身が食べられるとは限らない果物のように、 腐敗堕落しないように自戒するのは大切だと同調します。  皮を剥いで、中身が食べられないような果物を売る店がさびれるように、 倫理観は厳しくあるべきです。賞味期限内の食品でも冷蔵の条件付きのも のを、常温下で店頭に並べて売るのは非常識なことですね。  躾けとか、倫理などは人間の生存条件のようなものです。慣れてしまえ ば当たり前のことで、容易に守ることができます。  成長過程で適切でない環境に置かれると、社会人になってから、常識に 従うことに苦痛を感じ、することなすこと全てが周囲に迷惑を掛けること になります。  本人も大変、周囲も大変、その葛藤のなかで、双方にストレスがたまり、 限界を超えると、精神的に参ってしまう。  このような時には、大きな迷惑を掛けない内に、あるいは事故を起こさ ぬうちに、信頼できる人に相談する、神経科の先生の助けを借りることに 抵抗を感じてはなりません。  現代の社会の構造は人間にとって好ましい環境ではありません。社会が 病んでいるのですから、社会を構成する人間の心が病むことは有りがちな ことです。同時に、世の中が乱れる時代であればこそ、倫理観の向上、道 徳心の高さが貴重になります。  これらは家族から、子育てから始めなくてはなりません。時には幸運に して、そのような職場に恵まれることもあります。  当然に職場から躾けられることもあるでしょう。躾けられることは矯正 (きょうせい)されることですから苦しいことです。  苦しさから逃げ出したくなる時に、家族や配偶者などが、それを「いじ め」と誤解したり、不平不満の「受皿」になってしまうと、その人の将来 が有りません。  苦いことを言ってくれる環境は大切にするようにしないと彼岸には渡れ ないのです。 言葉は人間が使える最大の能力です。言葉は人格や性格を表し、不用意  に使用してはなりません。言葉は意思を伝えることが出来ると同時に、  善意も悪意も一緒に運びます。  誤解されぬように適切な言葉を選びましょう。 言葉は簡単に凶器になります。当て擦りや皮肉は剃刀、「うるさい」と  か「別れる」とか「辞める」と言うのは銃刀の使用と同じです。言葉は  人間であるしるしです。  大切に、適切に、真実を語るように努力しましょう。 観音院を腐敗堕落させないよう努力します。そのような傾向が見えまし  たらご指摘下さい。皆さんのお寺ですから、絶対に「腐らせる」ことは  出 来ません。  どうか、ご指導ご鞭撻賜るよう願いあげます。私どもの願いです。 努力している、自分は出来ると思った時から腐敗や堕落が始まります。  一生涯を通じて、慢心すること無く、努力し勉強する態度が大切です。  彼岸には、何処の彼岸に行きたいのか良く考えてみる機会にすれば  善い供養です。

前稿/8月号(2)次稿/9月号(2)


ご感想やお便りはこちらに


[バーチャル霊園][総合目次] [民の声] [門前町] [観音院] [English版]

観音院ホームページ観自在の目次